コーヒー1杯分の幸せを作ろう

3児の育休ママが、コーヒー1杯分の時間やお金を作るために役に立ったものたちを、挫折や試行錯誤の経験を交えながら紹介します。

さようならば

春という季節がどうも苦手だ。別れを告げることが、うまくできない。卒業や転職などの節目でしっかりと今までのお礼とお別れの言葉を言うべきではあると頭で分かってはいるが、心の整理が追いつかず、有耶無耶にしてしまう。

 

こちらから別れの言葉を言わなければ、明日にはなんてことない日をして、いつもの日常を送れるような、淡い期待をしてしまう。チンケな恋愛歌詞みたいで我ながら辟易とするのだが、掌から零れ落ちている間は気がつかなかったくせに、全て消えてしまった時に初めて、今まで当たり前に享受していたものが実は自分を支えてくれていたのだ、と噛み締める。大体いつも「人間関係って面倒臭いな。早くこの生活が終わらないかな。ヨーロッパの山奥で、一人で暮らしたい……」と倦怠感を抱えつつ惰性で毎日を送っているから、別れの瞬間には後悔することになるのだ。もっと楽しんでおけよ、と過去の自分を叱りつけてたくなる。

 

子育ての時期も、きっとそうなのであろう。”這えば立て、立てば歩けの親心”、とはよく言ったものだ。1日に100万回くらい「しんどいな、早く大きくなってくれないかな、1人になりたいな」と感じているのだが、いざ大人になった暁には「あの頃は楽しかったな…」とかほざいているのであろう。つくづく、人は学習しない生き物である。

 

別れの挨拶は、中国語では”再見”。ドイツ語”ではAuf Wiedersehen”で、分解するとWieder(再び)sehen(見る)。フランス語では”Au revoir”で、分解するとre(再び)voir(会う)。また会いましょう、という意味を含んでいるものが多い。

 

一方で、日本語の”さようなら”は、単独では再会の意を含まない。語源は”左様ならば”、”それならば”で、一生の別れをつけるわけでもなく、また会えるともいうわけでもなく、うやむやにしている。これはしっくりくる。

 

きっと、昔の日本人は分かっていたのではないであろうか。当たり前に会えていた相手と、もう二度と会えないことが多いと。インターネットや交通手段が発達していない当時は、尚のことだ。また、季節は四つもある。早々と移ろいゆき、次の季節が到来する。いちいちきっぱりと別れを告げたり、再会を約束したりしていては、忙しくなってしまう。

 

季節そのものは巡って来るものの、去年と今年のそれは決して同じものではない。さようならば、仕方ないよね、と新しい日常に戸惑い、毎回同じような愚痴を言いつつ、なんとなく生きていく。