余所行きの文章
文豪が書いた私用の日記が、とにかく面白い。
作品や公表している日記が余所行きに綺麗にラッピングされた商品だとすれば、私用の日記は商品を出すために作られた試供品、ただし出来たてでとてもおいしいものだ。そこには生活があり、葛藤がある。食べたものに始まり不倫まで、語られない多くの言葉たちが、文豪なだけあって、美しい言葉で並んでいる。
高校の頃、同級生たちが書いたブログを読むことが好きだった。彼(女)らの言葉は自分に向けたものであり、特に見られていることを意識していない。そこには秘めた思いや、なかなか成績が伸びないことへの悩みや、これからは勉強しようなどといった決意が、泡のように浮かび上がっては消えていた。
他人のブログを読まなくなったのは、いつからだろう。こういう風に読ませたい、こういう自分も見てほしい、あるいは物を買わせたい、と大人になるにつれて、急速につまらなくなっていったのだ。
人の目を意識した文章というのは、よほど自分がその思想に共感できない限り、胸に刺さらない。 共感はできないとはいえ心から綴った文章というのは、胸に刺さるものがある。上手く書くことは、誰だってできる。ただし、それが人の心に響くかどうかは別の話だ。
島崎藤村は四十歳の頃、十九歳の姪っ子と恋愛をしていた。父親も近親相姦をしていたし、母親も姦通をしていたし、まぁすごい一族だったのだ。島崎藤村も例に漏れなかった。姪と恋をしていた時に、島崎藤村は葡萄酒という隠語を使って素晴らしい作品を残している。関係がばれかけて彼は逃げるようにフランスに行くのだが、日本に帰国してからもまた関係を持っている。彼はとにかく粗食だったのだが、粗食で性欲が旺盛というのはどうやら割と良くいるタイプらしい。
粗食と言えば、樋口一葉だ。彼女はあまりに粗食で、葬式に森鴎外が馬で駆けつけようとしたところ、妹が「こんな粗末な食事を出すために森鴎外なんてすごい人を呼べない」と断ったほどであったらしい。
有名になったら、日常をただ綴っただけの日記を読まれてしまうのだろうか。絶対に読まれたくない。小学5年生から毎日日記をつけているが、確実に燃やしてほしい。持ち主が死んだら日記を花火のように爆破してくれるサービスが存在したら、ぜひとも申し込みたい。まぁ有名になることはないだろうから、安心してここには綴る。このブログには出してる文章は氷山の一角、比較的ましなもので、日の目を浴びていない文章が山ほどあるのだが、それは将来登場するであろう爆発屋に任せることにする。