親という仮想敵
次女の1ヶ月検診が終わった。
新生児との軟禁生活は、3人目ということもあり、慌ただしく過ぎ去った。
外出できるようになったので、保育園の送り迎えをやらなくてはならない。
連日、次女を抱っこして、長男と長女のお迎えに行っている。
15時のおやつの後、4~6歳の園児はひとつの部屋でに集められて遊ぶこととなっている。
4歳になる長男を16時過ぎにお迎えに行くと、長男と同じ部屋の子どもたちが、次女を見に寄ってくる。
印象的なのは、「赤ちゃんって初めて見た!」と言っている子が多いことだ。
先生が補足して「一人っ子だから、赤ちゃん見る機会がないんだよね」と説明してくれた。
現在、日本の出生率は1.2。きょうだいがいるのは5人に1人という計算になる。
子供が3人とか4人とかいる家庭を勘案すると、現状はもっと少ないのではないか。
兄弟姉妹がいる方が良いとか悪いとか、そんなくだらない議論をする気はない。
ただ、親という共通の敵について愚痴を言い合える相手がいるという意味で、兄弟姉妹の存在は便利である。
親の愛が重くなってくる時期は、必ずやってくる。
親から解放されようともがく時期というのはどうも、親のことを悪く言うのは良くない気がしてしまう。
かといって、両親の愚痴は、友達にはどうも話しづらい。
親友ですら、両親にまつわる笑い話はできても、不思議と悪口までいかない。
家族を題材にした映画や小説が多いのは、軽々しく表現できないものを何かしら抱えているからだろう。
魂の底に溜まっているものを吐き出しているような、渾身の一撃と呼べる作品に出会うと、特にそう感じる。
親からの期待や愛を一身に受け止めるのは、子どもにとって重すぎる。
まぁ親もそんなに子供に期待しなければいいのだろうけど、どうしても期待してしまうのが人の性。
泣くことやおっぱいを飲むことしかできず、母親とべったり過ごす、乳幼児。
大人になった今でも、母親からその時期の話をよく聞かされる。
一方、中学生以降の話はからっきしだ。ちょうど妹と両親についての愚痴を言い始めた時期と重なる。
母にとっては美しい思い出を取っておきたいという、人間の防衛本能なのかもしれない。
風もなく、まっすぐに降りしきる、春の雨。
お昼寝から起きた次女と寝室に2人きりでいると異世界にいるかのような錯覚に陥る。
窓の外を眺めながら、寝不足の頭でそんなことを考えた。