コーヒー1杯分の幸せを作ろう

3児の育休ママが、コーヒー1杯分の時間やお金を作るために役に立ったものたちを、挫折や試行錯誤の経験を交えながら紹介します。

37歳

4歳になる長男はよく「ママは何月に死ぬの?」と問うてくる。「さあ、何月だろうね」と、ぼんやりと、答えにもなっているようなならないようなやり取りを、ここ数日繰り返している。なんとも残酷な質問でもあるが、彼にとってはよく分かっていないのだろう。

37歳というのは魔法の数字で、画家のロートレックラファエロ、カラバッジョ、ヴァトー、ゴッホが亡くなった年齢である。37歳で人生を終えた彼らは何を思ったのだろう。私もあと5年もすればその年齢になるが、もし自分が37歳で人生を終えてしまうとすると、何か心残りになることはあるだろうか、とつい考えずにはいられない。もっと子供たちに優しくしてやればよかったとか、そんなことを考えるのだろうか。あと5年しか生きられないとなると、今のうちに家族との思い出を作っておかなきゃ、子どもに何か得意なことを見つけておいてあげなきゃ、と焦りもする。

ここ数日くらい気が滅入っていたのだが、もう自分が死んだ後のことは死んだ後のメンバーで何とかしてくれればいい、かと思うに至った。死後のことも整理できるほど、私は人間ができていない。もちろん借金を残さないようにするとか、最低限の礼儀を尽くしておけば、もういいだろう。結局何をやっても、後悔は残るのだ。変に我慢を続けて老後の生活など夢見るから、おかしなことになる。毎日の家事など必要なことはやるにせよ、あとは機嫌よく過ごしたいものである。

先日、職場の同僚が亡くなった。直接知らされたわけではないが、ご家族向けの写真を集めたりしているところを見ると、どうやらそのようである。出身が同じ地域であるのと、ゲーム好きと趣味も似ており、親しみを持っていた。とはいえ今は育休中で仕事から離れている身なので、今回の件がなければ彼のことを思い出さなかったかもしれない。今はもういない人物を、彼の死の連絡により頭に浮かべるなど、なんだか皮肉なことである。

人はいつか死ぬ。これは逃れらない。「どうして死んじゃうの?」と息子が聞いてくるが、私だってよく理解はできていない。ただ残された人間は、居ないなら居ないなりに、なんとかやっていくしかないのだ。死は何も語らないが、その生き様を浮かび上がらせる。ふとした折に、ゴッホのように人生にあがき続ける姿や、ロートレックのように娼館であろうと心地の良い空間に居座る姿を、ふとした瞬間に思い出したりするのである。

死と聞くと真っ先に思い浮かぶのは、ひいおばちゃんである祖父母のことだ。彼女は明治生まれのいわゆるハイカラな女性で、きちんとパーマをかけて、週刊少年ジャンプを欠かさずに読むようなおばあちゃんだった。当時ジャンプでは人気の作品がいくつかあったが、私はあまり人気のない犬の漫画が好きだった。当時、私は世間で流行っているものの波に乗れないことで悩んでおり、有名でない漫画を好きになってしまった自分に、変にしろめたさを感じていた。

ある日、ひいばあちゃんと同居する祖父母や叔父と食卓を囲んでいた時、彼女に「あやちゃんはジャンプだとどの漫画が好き?」と聞かれた。彼女相手に特に取り繕う必要もなかったので、正直にその犬の漫画を答えたところ、彼女は破顔一笑し、「私もすごく好き!」と言ってくれて、なんだか救われた。これが一番印象強く残っている。あとは喫茶店に連れて行ってもらった時に食べたバタートーストのパンの厚さと、バターの濃厚さだとか、断片的に覚えているものもあるが、おそらく両手に満たない数である。とにかく彼女は自分の好きなことをやっていて、それに気が向いたら私を付き合わせてくれるといった具合であった。

彼女が亡くなって十数年が経つが、正直まだよく死を消化できていない。かといって悲しくもないし、感傷に浸かるわけでもない。ただ「あー。そんなこともあったなぁ」と、ふとした折に思い出す頻度は、おそらく彼女が生きている時よりも死後のほうが増えた気がする。今回の同僚も、一緒だ。おそらく同僚の死について連絡がもらわなかったら、彼について思い出すこともなく終わっていたのかもしれない。

今後のためと思ってちょこちょこお金を貯めたり、したくもない仕事をして時間を浪費していくのが、なんだか馬鹿らしく思える。自分の好きなことをして、それに子供を付き合わせるくらいで良いのではないか。世間では副業副業と本業以外にもやりがいを見つけさせる風潮が流行っている。もちろん働くことは大事だが、もっと大事なことは、生きることなのだ。美味しいものを食べて、とりとめのない話を誰かとして、なんとなく自分の好きなことをして1日を終えたいものである。今日1日が無事に終われたことに感謝しつつ、残りの人生のらりくらりと生きていこうと思う。