コーヒー1杯分の幸せを作ろう

3児の育休ママが、コーヒー1杯分の時間やお金を作るために役に立ったものたちを、挫折や試行錯誤の経験を交えながら紹介します。

友達は無理に作らなくて良い

フランス留学時代、日本の小中学校で行われている運動会の練習を説明して、驚かれた。


前にならえ、気を付け、休め。炎天下の中、入退場のため行われる、行進の練習。
これらを行う学生は、まるで軍隊のようだ、フランスでそんなことをやったら暴動が起きる、と言われた。


そう言われた瞬間、昔から自分がおかしいと感じていたことに初めて共感してもらえて、何十年ぶりかに、胸のつかえが取れた気がした。


当時はずっと、おかしいだろうと思っていた。炎天下の中、教師の合図に合わせて行進の練習を行い、笛と共に前ならえ、気を付け、休め。


しかも、休めと言われても、全然休めるポーズではない。行進が済むと地べたに体操座りで座らされて、教師から「お前らやる気あるのか!なんだ、そのやる気の無い歩き方は!」など怒声を浴びる。そして、隊列が乱れていたので、もう一回やり直しという、永遠に続くのではとうんざりする地獄を味わい続ける。


余談だが隣で行進をしていた男子が「強制収容所へ向かってまーす」と冗談を口にして、吹き出してしまった。その様子を、教師を見逃す訳がなく、もう一度行進がやり直しになったのは、言うまでもない。


「運動会の行進はやる意味がよく分からないので、無くしましょう」と担任に提案したことがあった。大した説明もなく、うやむやにされて、叶わなかった。周りのクラスメイトにも話したが、「まぁ、確かにしんどいけど、先生がやれって言ってるんだからしょうがないよね」というような反応だった。


日本を出て、遠くフランスの地で、それはおかしいと言ってもらえて、あの時の自分の感覚は間違っていなかったんだ、と安心した。


運動会の行進に限らず、周りの友達と合わないなぁというのは、小学校の頃から薄々感じていた。みんな同じブランドを好きになって、同じ芸能人を好きになって、やたらと教師に従順なのが気持ち悪かった。


生きていると、多かれ少なかれ、周囲に違和感を感じることはあるだろう。その違和感を放置してはいけない。何とかして、そこから脱出しよう。


あなたの人生は、周りの人間で決まると言っても過言ではない。この人達は嫌だなぁ、合わないなぁ、と思いながら過ごしていると、あなたもいつの間にかそのような人間になる。


あなたが無理に友達に合わせて、大して勉強せずにいたら、一生、今住んでいる場所から出ることはないただろう。大して学びたくないもない地元の大学に行き、適当に採用してくれた会社に勤め、夜は小学校からの友達と居酒屋で集まる。そんな大人になる。


このことが悪いと言ってるわけではなく、心地良いのなら問題ない。私が言いたいのは、心地よいと感じていない場所に無理し居続けるべきではない、ということだ。


我慢をし続けていると、その怒りや鬱憤した思いのはけ口は、必ず弱い者に行く。
父親が仕事でうまくいっていないと母親に八つ当たりをし、母親は父親の不機嫌が原因で子供に八つ当たりをして、子供は犬をいじめ、犬が猫を噛む。昔からよく使われている例えだ。


仮にあなたが一つのコミュニティーにしか属しておらず、気が合う友達がいないのなら、無理に友達は作らなくてもいい。そんなところで、友達はいらない。別のコミュニティに、友達を求めればいい。そこで自分を適応させるようと頑張るよりも、別のコミュニティを探すことに努力のベクトルを向けよう。


未成年の場合は、好きなように学校を変えたり、引っ越しをするのが難いかもしれない。別のコミュニティにアクセスするのが独力では難しかったら、勉強して賢い大学へ行くなり、何か興味のある方を見つけてお稽古ごとを進めたり、道のりが遠くて苦しいかもしれないが、長い目で見れば道はいくらでもある。勝手に悲観的になり、人生に絶望してはいけない。


もっといけないのは、違和感を押し潰して生き続けることだ。友達が1人もいないコミュニティなど、あって何の問題ない。職場の同僚やクラスメイトと合わない場合、過ごす時間が長く、苦しいかもしれない。


そんな時は教室やオフィスにおらず、図書館や保健室、取引先へ逃げ込めばいい。空想の世界にふけるのも、たまにはいいだろう。


さらに言えば、友達が一人もいない期間だってあっていい。家で漫画を読んだりゲームをする時間が、友達と会う時間より価値が低いものでは、決してない。誰とも会う約束が入っていない時間は、なかなか自分が本当に好きなことに集中できて、有意義に過ごせるものだ。

 

#育児 #子育て #人間関係 #悩み #コミュニティ