コーヒー1杯分の幸せを作ろう

3児の育休ママが、コーヒー1杯分の時間やお金を作るために役に立ったものたちを、挫折や試行錯誤の経験を交えながら紹介します。

ヨックモックミュージアム

6月から美術館が再開したので、早速、表参道のヨックモックミュージアムに行って来ましたー。ここ、ずっと行きたかったんですよね。


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ピカソが65歳から陶器作りを始めて、4000点もの作品を残しているのですが、ここには50点近くの作品が飾られています。おすすめは美術館だけでなく、中1階にあるアートライブラリー。美術の本をたくさん読むことができて、広々とした机もあり、ほっと一息着くことができます。

 

入場券を買わなくても、カフェやアートライブラリーのみの利用もできるみたいです。2020年に6月に開館したから、めちゃくちゃ綺麗!おむつ替えスペースあり、バリアフリー対応もバッチリで、ベビーカーでも快適に回れました。

 

表参道に行った際、ぜひお立ち寄りください。ちなみに有名じゃないから空いてて、事前予約いらないです。平日はガラガラで、行った時は私たちだけでした笑。

余力がある方は、すぐそばにある岡本太郎記念館もどうぞ。

 

雨の日の電灯(モディリアーニ)

しっとりとした、女の肌のような五月雨が降り続いている。忘れ去ることのできない心の傷のように、濡れた地面には、大小様々な足跡が残っている。

小学生の頃、雨の日が好きだった。独特の匂いが漂う教室で、ぼんやりと青白い光を放つ電灯が特にお気に入りだった。たっぷりと湿気を吸い込んだ廊下に、生徒の上履きが黒ずんだ汚れを転々と残していく。それを見て、「今日、掃除当番でなくて良かった」と胸をなでおろしたものだった。雨天時は、普段は外で行う体育の授業が体育館で行われたりと、日常に変化が出てくる。子供が生まれてからは、外に出かけなくていい免罪符として、雨を理由に嬉々として引きこもっていた。「まあ、雨だからしょうがないよね」と言って予定をいくつもキャンセルし、家の中で何をするでもなく、だらだらと時間を貪っていた。

穏やかであたたかい雨なら良いが、寒空の雨は雪となり、人の心を凍らせる。暖の取れる場所にいる者ばかりでなく、寒い所にいざるを得ない者もいる。

モディリアーニが35歳という若さでこの世を去った時も、雪の降る寒い日だったと言われている。薬物やアルコールとともに放蕩を尽くし、18歳のジャンヌという美術学生の恋人を得て、密月の後に2歳の娘を残して没している。同じ時代に生きたユトリロも同じくアルコール中毒で、モディリアーニと一緒に語られることが多いが、大きく違うのは、母親への眼差しの違いだ。ユトリロは、性にも人生にも自由奔放である母親からの愛情に飢えており、生涯に渡って求め続けた。対してモディリアーニは、幼い頃から親の愛情を一身に受け続けていた。そのためか、彼の人生そのものは悲惨であるが、彼の絵や価値観には底抜けに明るいものが感じられる。優しい母親とジャンヌの存在は、陰気な雨が降る教室で灯された電灯のように、彼の人生を照らし続けたのだろう。モディリアーニの没後すぐ、ぷっつりと電灯の役目を終えたかのように、ジャンヌは、妊娠9ヶ月の身を投げて自殺をしてしまう。残された2歳の娘は親戚中から預かりを拒否され、おばのもとで育つことになった。

どうしても芸術家の一生と聞くと、その悲劇性に目が行きがちである 。哀れな人生なんてないし、順風満帆な一生なんてものも存在しない。人類の歴史なんて、たかだか25万年。一方で恐竜は約1億6000万年も地球に君臨し続けている。恐竜の歴史に比べると、人類の歴史なんてなんともない。その中で「人生の意味」なんてものをこねくり回して創り上げようとするのは、生き物が暇になった、贅沢な証なのかもしれない。

ただ、暇になると、悩みが出てくる。いつまでも達成しない自己実現だとか、親の期待に添えないとか、多かれ少なかれ、頭を抱える瞬間というものは存在する。中学時代、汗っかきの私は制服のブラジャーが透けて見えてしまうこがどうしても嫌で、湿気が多く汗をかきやすい雨の日が、次第に憂鬱になっていた。思春期であった当時は非常に自意識過剰で、クラス中の男子の視線が自分の背中に注がれているような気がしていたのだ。そのため、暑くもないのに、びっしょりと汗をかきながらカーディガンを着たりしていた。

背中の汗だとかくだらない悩みに神経を使わず、自分の選択と集中をするようしたからこそ、モディリアーニは作品を残し、激動の人生を終えたのだろう。自分は、まだ何に選択すべきか、何に集中すべきか、もやもやと迷っている。あれもこれも手を出して、結局、何も成し遂げていない。ただ飯を食らって寝ていても生きてはいけるが、どうしても他人の活躍している情報が目に飛び込んでくる。知人の活躍する姿を指を咥えて見ているよりは、とにかく手を動かしている方が、精神衛生上、良いのだ。我ながら己の嫉妬深い性格には、昔からほとほと手を焼いている。モディリアーニのように、居るだけで場が明るくなるというような人間からは、程遠い。彼は飲み屋で即興で絵を描いて、それを売っていた。プライドも何もないのである。とりあえず酒代とドラッグを仕入れるお金が入ればそれで良く、あとはジャンヌと娘を愛で、そして絵を描いていた。

人生の意味とか悩みとか、そういったことを考えるから、生きるのが複雑になるのかもしれない。地球の生き物はどんどん賢くなっているのか、愚かになっているのか、はたまたどちらなのか。いずれにせよ8私の人生という一つの電灯も、一匹の蛾くらいは引き寄せることができれば良いな、と思う限りである。

親から認められたい(ゴッホ)

どうしてもやる気が出ないことの一つに、金を稼ぐことがある。

銀行で法人営業をしていた頃、ノルマがあるので、取引先にとって必要のない金融商品を売りつけなくてはならなかった。当時は地方の営業店で中小企業を担当しており、「もっとお客さんにぴったりとはまるような金融商品があればいいのに」と思いつつも、本部がそんな商品を作ってくれるわけがないことは薄々分かっていた。会社のためにカスタマイズされた商品を作るには、それなりの規模のある会社で、見返りが多くないといけないからだ。名前を聞けば小学生でもわかる程の大企業を上司とともに担当して、その会社に見合った金融商品の管理で忙しいとぼやく同期に羨望の眼差しを向けていることを悟られないように尻目で見つつ、誰からも忘れ去られた土地の、出世コースから外れた店で、自分の将来にも、やっていることにもくすぶっていた。

大企業は銀行が「どうか取引をさせて下さい」と下手に出る立場なので、低金利で金を貸すだけでなく、だいたいが赤字取引である。赤字の補填は、中小企業へ手数料や利率の高い商品を売りつけて賄うのだった。ただ、人間とは怖いもので、その環境で5年も働いていると、慣れてきてしまう。退職する間際は、何の罪悪感もなしにホイホイと高額商品を売りつけるまでになっていた。こちらは「高いなぁ、本当はもっと安い値段で売っている会社もあるんだけどなぁ」と他の取引先を見て知っているのだが、お客さんにとってはどんな値段で売っているのか知りようがない。「とっても便利になりました、ありがとう」と何度か言われるうちに、「まあ対価としてお金をもらってるんだから、いいか」と思うに至ったのである。

ゴッホは、私とは正反対であった。「商売とは、組織化された窃盗である」と啖呵を切り、弟から斡旋してもらった仕事を辞めて、牧師の道を歩むことを決意する。ただ神学校に入るには成績が足りず、入学が叶わなかった。彼は頭と体が結びついている、典型的な人間である。人々を救いたいと言う心と、勉強をするという行動を、どうしても結びつけることができなかった。試験には受からないものの、狂信的とも言える献身的な活動は教会の目にとまり、特別に仮免許という形で牧師の活動を許される。この仮免許は、一刻も早く人々を救いたいと熱望していたゴッホにとって、悲願の代物であった。彼は爆発するかのようなエネルギーを布教活動に向けるようになる。当時、炭鉱では労働環境の劣悪さ問題になっていた。そこでは大人も子供も自らの健康と寿命を犠牲に、わずかなパンを食らって生きていた。ゴッホはそこで熱心に布教活動を行うだけでなく、抗議活動にまで加わるようになる。これはやりすぎだろうということで、仮免許を剥奪されてしまうに至る。

牧師である父を意識し続けていた彼にとって、牧師への道を断たれたことへの落胆は大きかった。父の絵を残すことは積極的にはしていなかったが、父の死後、聖書などの父を暗示させる絵画が増えるなど、父を意識し続けたことは所々に表れている。そこには親に認められたいけれど認められない、どこまでも追いかけてくる葛藤が影を落としている。

親からの承認欲求は、誰もがぶつかる壁である。親世代との価値観の違いというのは、風呂場のカビのように発生からは逃れられず、子供の自己実現と、親の願う像がずれてくる。それは暗闇に佇む幽霊のように、不意に出現し、子供を捕らえて離さない。その呪縛から逃れることができるのは、おそらく親が死んだ時くらいだろう。

ゴッホの人生は、悲劇としてとらえられがちである。画商や牧師と職を転々とし、いとこや娼婦にうつつを抜かしつつ、女性関係も上手くいかず、精神病院に送られた挙げ句に精神異常者として一生を自らのピストルで終えた人生は、人々が好んで好みそうな悲しい出来事のフルコースである。ただ、誰の人生も、そんなものなのではないか。彼の人生を引き伸ばしたようなものが、我々のような一般人の人生な気がする。大抵の人間が薄めて飲むような酒を、ゴッホは原液で一気に飲み干し、そして亡くなった。ただ、それだけの話である。

働き、自分に合わないと職を変え、やりたいことがやっと見つかるも、世の中に認められることがなく死んでいく。これは、誰もが送る人生の縮図である。そして漏れなく、親という亡霊がつきまとう。親の死によって解放されたかと思うと、いきなり荒野に立たされ、そこには強風が吹き荒れている。強風の中を、自分の価値観と言う頼りない杖をつきながら、少しずつ前に進んでいく。人生というのは、そんなものなのではないだろうか。親という亡霊によって導かれていた時には安全であった道のりも、もう一人で歩かざるを得ない。鬼が出るか蛇が出るか、行き着く先に崖があるのか穴があるのか、自分で確かめるしかない。

ゴッホは子連れの娼婦と関係を持ち、束の間の家族ごっこを楽しんだ。弟や当時生きていた父親から非難されるのだが、原液を飲み続ける人生を生きる彼にとって、家族という経験はこれで十分だったのではないだろうか。原液を希釈した人生を生きている者にとっては、10ヶ月の妊娠期間の子供が生まれるだろうかと言う心配や、生まれてからの産後の母親のヒステリーや、自分の時間がうまく作れない葛藤を感じることがある。ゴッホは他の人間よりも恐ろしく短い時間で家族たるものは何かを感じ取り、絵も残している。

巷でよく名前の挙がる成功者ですら、親の話を出すものは少ない。後付による美談ばかりである。おそらく親というのは、子供の中で亡くなるまで消化しきれないのだろう。育児書は世間一般では「親に認められることだけを目的とした、従順な子供を育ててはいけない」というフレーズが溢れる。親の価値観が、脱皮し損ねた蛇のように、子供にずるずるとつきまとっている風潮を揶揄している。生きながらにして親という逆風に抗い続け、そこで必死に親からの承認欲求を求め続けた、ある意味では子供の心を持ち続けたゴッホ。その幼い心は今、最も高額な絵画として取引されているこの世の中を持って満たされているのだろうか。ここから先は死生観の話になってくるので、筆を置くことにする。

37歳

4歳になる長男はよく「ママは何月に死ぬの?」と問うてくる。「さあ、何月だろうね」と、ぼんやりと、答えにもなっているようなならないようなやり取りを、ここ数日繰り返している。なんとも残酷な質問でもあるが、彼にとってはよく分かっていないのだろう。

37歳というのは魔法の数字で、画家のロートレックラファエロ、カラバッジョ、ヴァトー、ゴッホが亡くなった年齢である。37歳で人生を終えた彼らは何を思ったのだろう。私もあと5年もすればその年齢になるが、もし自分が37歳で人生を終えてしまうとすると、何か心残りになることはあるだろうか、とつい考えずにはいられない。もっと子供たちに優しくしてやればよかったとか、そんなことを考えるのだろうか。あと5年しか生きられないとなると、今のうちに家族との思い出を作っておかなきゃ、子どもに何か得意なことを見つけておいてあげなきゃ、と焦りもする。

ここ数日くらい気が滅入っていたのだが、もう自分が死んだ後のことは死んだ後のメンバーで何とかしてくれればいい、かと思うに至った。死後のことも整理できるほど、私は人間ができていない。もちろん借金を残さないようにするとか、最低限の礼儀を尽くしておけば、もういいだろう。結局何をやっても、後悔は残るのだ。変に我慢を続けて老後の生活など夢見るから、おかしなことになる。毎日の家事など必要なことはやるにせよ、あとは機嫌よく過ごしたいものである。

先日、職場の同僚が亡くなった。直接知らされたわけではないが、ご家族向けの写真を集めたりしているところを見ると、どうやらそのようである。出身が同じ地域であるのと、ゲーム好きと趣味も似ており、親しみを持っていた。とはいえ今は育休中で仕事から離れている身なので、今回の件がなければ彼のことを思い出さなかったかもしれない。今はもういない人物を、彼の死の連絡により頭に浮かべるなど、なんだか皮肉なことである。

人はいつか死ぬ。これは逃れらない。「どうして死んじゃうの?」と息子が聞いてくるが、私だってよく理解はできていない。ただ残された人間は、居ないなら居ないなりに、なんとかやっていくしかないのだ。死は何も語らないが、その生き様を浮かび上がらせる。ふとした折に、ゴッホのように人生にあがき続ける姿や、ロートレックのように娼館であろうと心地の良い空間に居座る姿を、ふとした瞬間に思い出したりするのである。

死と聞くと真っ先に思い浮かぶのは、ひいおばちゃんである祖父母のことだ。彼女は明治生まれのいわゆるハイカラな女性で、きちんとパーマをかけて、週刊少年ジャンプを欠かさずに読むようなおばあちゃんだった。当時ジャンプでは人気の作品がいくつかあったが、私はあまり人気のない犬の漫画が好きだった。当時、私は世間で流行っているものの波に乗れないことで悩んでおり、有名でない漫画を好きになってしまった自分に、変にしろめたさを感じていた。

ある日、ひいばあちゃんと同居する祖父母や叔父と食卓を囲んでいた時、彼女に「あやちゃんはジャンプだとどの漫画が好き?」と聞かれた。彼女相手に特に取り繕う必要もなかったので、正直にその犬の漫画を答えたところ、彼女は破顔一笑し、「私もすごく好き!」と言ってくれて、なんだか救われた。これが一番印象強く残っている。あとは喫茶店に連れて行ってもらった時に食べたバタートーストのパンの厚さと、バターの濃厚さだとか、断片的に覚えているものもあるが、おそらく両手に満たない数である。とにかく彼女は自分の好きなことをやっていて、それに気が向いたら私を付き合わせてくれるといった具合であった。

彼女が亡くなって十数年が経つが、正直まだよく死を消化できていない。かといって悲しくもないし、感傷に浸かるわけでもない。ただ「あー。そんなこともあったなぁ」と、ふとした折に思い出す頻度は、おそらく彼女が生きている時よりも死後のほうが増えた気がする。今回の同僚も、一緒だ。おそらく同僚の死について連絡がもらわなかったら、彼について思い出すこともなく終わっていたのかもしれない。

今後のためと思ってちょこちょこお金を貯めたり、したくもない仕事をして時間を浪費していくのが、なんだか馬鹿らしく思える。自分の好きなことをして、それに子供を付き合わせるくらいで良いのではないか。世間では副業副業と本業以外にもやりがいを見つけさせる風潮が流行っている。もちろん働くことは大事だが、もっと大事なことは、生きることなのだ。美味しいものを食べて、とりとめのない話を誰かとして、なんとなく自分の好きなことをして1日を終えたいものである。今日1日が無事に終われたことに感謝しつつ、残りの人生のらりくらりと生きていこうと思う。

ルソーと埋まらない溝

おそらく誰もが持っていると思うが、子供の頃にした不思議な体験というのは、いつまでも覚えているものだ。

小学生の頃、住んでいた家の道を挟んだ斜め向かいに、白い大きな一軒家が立っていた。当時の主流であった2階建てではなく平屋で、贅沢な土地を使い方をしていた。花々が咲き誇る西洋風の庭にはテーブルとベンチがあり、住んでいる人はさぞかし優雅な生活をしているのだろうと、狭いマンションに四人家族で暮らしていた私は、羨ましくてたまらなかった。昔から理想の暮らしを頭の中で描き、その中に身を置いている自分を想像することが趣味であったので、妄想の材料の足しにしようと、近くを通りかかるたびに家の中を覗くのが常であった。

ある金曜日の夕暮れ、母の運転する車に乗り、バレエ教室から帰っていた時のことである。その家の前を通りかかると、全裸のふくよかな白人の女性が、庭に何をするでもなく立っていた。突然の出来事に声も出ず、ひたすら凝視するしかなかったが、彼女は誰かに見られていることを気にもせずに、ただぼんやりと虚空を見つめ、夕日を浴びていた。車に乗っていたので長い時間見ることはできなかったが、確かに裸の女性が庭に出ていたのだ。なぜかそのことを誰にも言ってはいけない気がして、隣にいた妹にも運転した母にも、この出来事は話さないまま、今日まで至っている。

名古屋という地方都市で、高級住宅街と呼ばれる地区に住んでいたせいか、一軒家に住んでいる家はお金持ちで、マンションを含む集合住宅に住んでる家はそんなに裕福ではないという暗黙の了解が、小学校ではあった。我が家はいわゆる中流家庭で、学区がいいから絶対にここに住むべき、という母親による鶴の一一声で引越してきた身だったので、もれなくマンションに住んでいた。

中学校に上がり、他の小学校が一緒になると特に、自分の家は一軒家ではなくてマンションであると知られることがすごく嫌だった。すでに自分の家がマンションだと知っている同じ小学校出身者と違って、他の小学校出身の同級生は自分のことを全く知らない。せっかくのキャラ変のチャンスを逃したくはない。住所を書くときにはマンション名を書かないようにしたりと、幼心えそうなのに涙ぐましい努力をして、一軒家に住んでいないことをばれないようにすることで必死だった。

社会人になって、自宅であるマンションから会社へ通うことになった。ゴルフの際、当時の上司が家まで迎えに来てくれることになった。住んでいる土地を言うと、周りの同僚達が「高級住宅街だ!」と騒ぎ立てるのだが、上司は「でもお前、マンション住まいだろう?」と冷ややかな声で問うてきた。普段は温厚な彼にしては珍しく、どうして急にこんな底意地が悪いことを言う気になったのかは知らないが、小中学校時代の、マンションに住んでいる中流家庭である自分を隠したかった気持ちが、むくむくと湧いてくるのを感じた。

この件をきっかけに、職場では、その白い家にあたかも住んでいるかのように振る舞うことにした。上司からゴルフの迎えに来てもらう時は、白い家の前に来てもらっていた。今思えば住所を伝えてあったので一軒家に住んでいないことなど完全にバレていたと思うのだが、意地みたいなものである。ゴルフのある日は、早朝に、集合時間前に白い家の前に立ち、上司の迎えを待つ。ゴルフの後はその家の前まで送ってもらって、「ここなので。」と言って車を降りていた。上司の車が見えなくなるまで家の前に立ち続け、車が見えなくなると、向かいのマンションへ重いゴルフバッグを引きずって、いそいそと帰っていった。東京へ異動になり、転勤と同時に両親は一軒家へ引越し、皮肉にも夢は叶うのだが、私はそこに住むことはなかった。

ルソーという画家がいる。彼は9人の子供に恵まれるが、うち7名を失くし、妻クレマンスも失っている。税関の税関の職員として働き続け、41才でデビューした、大器晩成の画家である。やっとの思いで絵が認められてきたルソーを主賓として、ピカソがお祝いのためのパーティーを開いた事があった。ルソーは嬉々としてバイオリン持ち込み、自ら作曲した「クレマンスのワルツ」という曲を弾いて見せた。ピカソを含む彼の仲間が、遅すぎるデビューを飾った画家を内心どう思っていたかは、安易に察することができる。ルソーの頭の上には熱い蝋燭が垂らされるというイタズラが行われたが、彼は黙って耐えていたと言う。ルソーは明らかに道化師の役割をさせられていたが、それを知った上で集まりに参加していることを周りに悟られることは、彼のプライドが許さなかった。

彼は、週末だけに絵を描く日曜画家では決してなく、自らの職業として画家と名乗り続けた。詐欺の疑いで裁判所へ召集された時も、「私は画家である」と言って自分の作品を皆の前に出したが、途端に法廷は失笑の渦に飲まれたと言う。周りから目に映る彼は、税関職員を退職し、趣味で絵を書いているどこにでもいるような男にすぎなかった。

私は、彼の気持ちがすごくわかる。自分がこう見られたいという像と現実の間に、あまりに埋められない溝がある。その深淵は暗く、取り返しのつかないほどの年月をかけてできた、決して埋まらない溝だ。少しでもその溝を埋めようと、来る日も来る日も砂を埋め続けるのだが、一向に終わる気配がない。砂をかき集めることは、周りへの虚勢を張って見せることと通じる。

久しぶりに以前の住んでいたマンションの近くを通りかかると、もう今は白い家は取り壊されて、別の新しい家が建っていた。家の趣味から想像するに、おそらく前に住んでいた家族とは別の家族が住んでいるのだろう。現在建っているのは山小屋のような自然の温もりのある家で、以前の西洋趣味の屋敷とは打って変わったしつらえになっている。金曜日の夕暮れに、庭で裸体を晒していた白人のふくよかな女性は、いったい誰だったのか。今はもう知る由もない。

飛べないブタでも、踊ることはできる。

感染症対策で、運動不足の人が増えているらしい。私は感染症も何も関係なく、運動不足であった。座っている状態から立つときに「よっこらせ」「あー、よいしょ」など声を出して自分を鼓舞しなければ、立つことができないレベルに酷い。長男が「ママ」の次に喋った言葉は「よいしょ・・・」であったという有様である。運動しなければと思い、早5年。決意の数だけは、誰にも負けていない。そんな私が奇跡的に運動が続いているのは、オキュラスクエスト2と呼ばれる VRバーチャルリアリティ)のゲームのおかげである。

オキュラスクエスト2とは何なのか。遊ぶ方法はシンプルだ。ヘッドセットと呼ばれるゴーグルを頭につけて、左右の手にコントローラーを握る。これだけで済むのはありがたい。パソコンの電源をつけたり、テレビの電源をつけたりするのが面倒くさくてゲームをやらなくなった人でも、続けることができる。ネットを通じて他人とスコアを競うこともできる。まだ競うレベルに全く入っていないのだが、極めてきたらその世界を楽しむこともできるのかもしれない。

ゴーグルを装着するとと3 D の世界が広がっており、まるで3 D メガネをかけて映画を見ているかのような没入感に浸かることができる。左右に握ったコントローラーを振り回してボクササイズをやったり、ダンスをやったりと、家にいながら体を動かして楽しむことができる。ちなみにこのVR、 ホラーゲームが最も臨場感がありはまってしまうらしいが、私自身は怖がりなのでホラーゲームはできていない。知人からは「大爆笑しながらホラー映画よく見てそうな印象」だとよく言われるのだが、全くもって正反対だ。人の目に自分がどう映っているのか一抹の不安を覚える瞬間がふとあるが、それはまあ置いておく。

ダンスが好きな人には、ダンスセントラルというゲームがお勧めである。男女5人のキャラクターがいて、それぞれと踊ったりメッセージをやり取りすることで、好感度を上げていくことができる。好感度を MAX にすると衣装を変えて一緒に踊ってくれたりする。エミリアというキャラクターの衣装が個人的にお気に入りである。

ダンスがそこまで好きではない人は、ビートセイバーというゲームがお勧めだ。こちらに向かってくる箱を、ひたすら刀で叩き斬るゲームである。これはちょっとした侍気分になれるので、日本人の血が騒ぐかもしれない。知らんけど。音楽も割とノリのいい曲が多いので、クラブミュージックなど好きだった人にはうってつけだ。

昔ゲームセンターで音ゲーをやっていた人は、ビートセイバーでは少し物足りないかもしれない。そんな人は、オーディオトリップというゲームをおすすめする。こちらはビートセイバーより少し難易度が高く、動きの種類も多い。どうしても音ゲーと言うと、Nintendo SWITCHのダンスゲーム「Zumbaで脂肪燃焼」が約30曲しか収録されておらずすぐクリアしてしまうように、曲数の少なさがネックとなる。これはアプリという形で日々アップデートされるので、新しい曲が入ってきたり、曲を購入することができる。

1時間でそろそろ何をしようか飽きてきてしまった人にもぜひおすすめ。値段を見て少し高いなと思うかもしれないが、月額のジム4ヶ月分と考えるとすぐに元が取れる。

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今週のお題「おうち時間2021」

役に立たないもの、上等。

実家の隣にある空き地がなくなり、家が建つことになった。

 

その空き地は300坪と小学校の運動場ぐらいの広さがあり、雑草が生い茂っている。今夏から工事が始まり、8軒もの狭小住宅が建つらしい。そこでは野良猫や近隣の子どもたちが集まり、何をするわけでもなく時間をつぶしていたので、もうこの風景を見ることができなくなるのかと思うと物悲しい。

 

まあ、土地の持ち主からしたらそうするのが理にかなっているし、空き地にしておくのは勿体なかったのではあろう。それにしても田舎でこんなに詰め込まなくても、と思わずにはいられない。余裕がない世の中になったものだ。

 

都市ではもちろん、空き地などない。土地が開くとすぐさま工事が始まり、2台しか停めることのできない上に駐車の難易度が高いコインパーキングや、同じような顔ぶれの居酒屋が並ぶペンシルビルが建てられる。

 

空き家の問題も、世間では騒がれて久しい。そんなに詰め込むべきなのだろうか。家の中にしろ外にしろ、持ち物にしろ予定にしろ、人は皆、詰め込みすぎる。重くなって、そこから動けなくなる。根を生やして生きることもちろん大事だが、何もかも詰め込めばいいというわけではない。

 

余裕や空白の中でしか、思想は生まれない。皆がせかせかして、土地にも所狭しと役に立つものばかりが並んでいる。こんな世の中は、役に立たないものに囲まれて育った身としては、息が詰まる。何もしていない時間というのが許されず、人はラベルによって判断される。アチーブメントというよく分からないけど単語が叫ばれるように、何かを成し遂げることがあたかも人生の目標であるかのようなことを謳う本が、書店に平積みされている。

 

空き地がある時分は、「こんな雑草ばかり生えた空き地があるせいで、夏場に蚊が寄ってくるんだ」と悪態ばかりついていたのだが、いざなくなってしまうとなると、急に色鮮やかな花々ばかりが目につくのが不思議だ。

 

よく事故などに会い一命を取り留めた人が、事故に遭う前よりも幸せに暮らすことができるようになったというのも、同じような理屈なのだろう。当たり前に享受していた幸せが一気に崩れ去ることを知るや否や、その中にある光り輝く原石が見えてくる。

 

我が家でも2歳の長女が自宅で転落して頭を打ち、救急車で運ばれ、脳内出血して入院した際は、生きた心地がしなかった。退院後、日々穏やかに何事もなく過ごせることに対して感謝ができるようになった。

 

人間の脳など、地球全体の歴史から見るとたかだか数千年。恐竜の存在した1億6000万年前からこの土地にいるであろう虫や植物に比べれば、まだまだ未発達である。例え周りから見たら草ぼうぼうの空き地のような人生だとしても、不快だと思う害虫をとったり雑草を抜いたりと日々を送りながら、たまに綺麗な花を見つけて喜んだりと、だましだまし暮らして行くのがちょうどいい。役に立つからと詰め込みすぎて疲弊してしまうよりも、よほどいい。