コーヒー1杯分の幸せを作ろう

3児の育休ママが、コーヒー1杯分の時間やお金を作るために役に立ったものたちを、挫折や試行錯誤の経験を交えながら紹介します。

役に立たないもの、上等。

実家の隣にある空き地がなくなり、家が建つことになった。

 

その空き地は300坪と小学校の運動場ぐらいの広さがあり、雑草が生い茂っている。今夏から工事が始まり、8軒もの狭小住宅が建つらしい。そこでは野良猫や近隣の子どもたちが集まり、何をするわけでもなく時間をつぶしていたので、もうこの風景を見ることができなくなるのかと思うと物悲しい。

 

まあ、土地の持ち主からしたらそうするのが理にかなっているし、空き地にしておくのは勿体なかったのではあろう。それにしても田舎でこんなに詰め込まなくても、と思わずにはいられない。余裕がない世の中になったものだ。

 

都市ではもちろん、空き地などない。土地が開くとすぐさま工事が始まり、2台しか停めることのできない上に駐車の難易度が高いコインパーキングや、同じような顔ぶれの居酒屋が並ぶペンシルビルが建てられる。

 

空き家の問題も、世間では騒がれて久しい。そんなに詰め込むべきなのだろうか。家の中にしろ外にしろ、持ち物にしろ予定にしろ、人は皆、詰め込みすぎる。重くなって、そこから動けなくなる。根を生やして生きることもちろん大事だが、何もかも詰め込めばいいというわけではない。

 

余裕や空白の中でしか、思想は生まれない。皆がせかせかして、土地にも所狭しと役に立つものばかりが並んでいる。こんな世の中は、役に立たないものに囲まれて育った身としては、息が詰まる。何もしていない時間というのが許されず、人はラベルによって判断される。アチーブメントというよく分からないけど単語が叫ばれるように、何かを成し遂げることがあたかも人生の目標であるかのようなことを謳う本が、書店に平積みされている。

 

空き地がある時分は、「こんな雑草ばかり生えた空き地があるせいで、夏場に蚊が寄ってくるんだ」と悪態ばかりついていたのだが、いざなくなってしまうとなると、急に色鮮やかな花々ばかりが目につくのが不思議だ。

 

よく事故などに会い一命を取り留めた人が、事故に遭う前よりも幸せに暮らすことができるようになったというのも、同じような理屈なのだろう。当たり前に享受していた幸せが一気に崩れ去ることを知るや否や、その中にある光り輝く原石が見えてくる。

 

我が家でも2歳の長女が自宅で転落して頭を打ち、救急車で運ばれ、脳内出血して入院した際は、生きた心地がしなかった。退院後、日々穏やかに何事もなく過ごせることに対して感謝ができるようになった。

 

人間の脳など、地球全体の歴史から見るとたかだか数千年。恐竜の存在した1億6000万年前からこの土地にいるであろう虫や植物に比べれば、まだまだ未発達である。例え周りから見たら草ぼうぼうの空き地のような人生だとしても、不快だと思う害虫をとったり雑草を抜いたりと日々を送りながら、たまに綺麗な花を見つけて喜んだりと、だましだまし暮らして行くのがちょうどいい。役に立つからと詰め込みすぎて疲弊してしまうよりも、よほどいい。