コーヒー1杯分の幸せを作ろう

3児の育休ママが、コーヒー1杯分の時間やお金を作るために役に立ったものたちを、挫折や試行錯誤の経験を交えながら紹介します。

子育ての溜め息

子育ては溜め息の連続だ。

世間では休日だが夫が朝から仕事なので、子供たち3人と家にいる。長男は昼飯の前におやつを食べ過ぎて、お昼ご飯がお腹に入らない。変な時間にお腹が空いて、おやつを食べて、夕飯もままならない。長女にはテレビを見せても、早々に飽きてしまい寄ってこられる。やっと自分のことができると思ったのに、肩を落としてしまう。いろんな作業が中断されて、中途半端なままほったらかしにされている。休日はこの連鎖にうんざりする。古びたアパートの螺旋階段のような憂鬱から、一向に抜け出せない。「頭ではわかっている」アドバイスやお説教が降り注ぐ中、傘をさして身を守りながら、ぐるぐると屋上をめざして歩きつづけている。

それにしても、休日の雨は本当に勘弁していただきたい。本日は15時から雨なので、家で過ごさざるを得ない。保育園が休みの休日など、連休ならぬ連勤である。片付けて、料理を作って、そうして日が暮れていく。都市部の家は、狭さといい構造と良い、子供が過ごせるようにできていない。都市の構造そのものが、子供を含む自然を排除した上で、大人だけのために作られたものだから、致し方ないのだか。

こんな何億人もの母親が今まで経験してきてであろう愚痴を吐きつつも、20年後には「子育ての時期は、とても楽しかった」などと語っているのであろう。日の光を浴びながらブランコを漕ぐ姿や、夕飯に頭を悩ませながら帰る道すがら嗅いだ出汁の臭いなどは、子育てが終わった後に出くわすと、「あぁこんな日々もあったっけ」と、ひとり郷愁にふけるのであろう。忘れるという能力は素晴らしい。例えその最中が、まるで全てが思い通りにいかないかのような葛藤と、決して子供のせいではないと分かっていながら叶わない自己実現に苛ついていたとしても。

本当に人間の頭というのは、都合よくできている。でないと、とっくに絶滅していたのだ。こんなうんざりしている姿なんて、きっと微塵も思い出さず、きょうだい仲良く遊んでいる姿ばかりを思い出すに違いない。時刻を見ると、12時49分。まだまだ1日は長い。溜め息はキッチンの窓から外に漏れ、誰にも見られることもなく、そっと姿を消していった。

グローバル人材の謎

アメリカで最も有名な俳句は、種田山頭火による「まつすぐな道で かなしい」。松尾芭蕉の「古池や 蛙飛び込む 水の音」ではない。

 

芭蕉は全国を旅して作品を編み上げたが、アメリカ人にとって日本の風景はあまり馴染みのあるものではない。種田の描く「まつすぐな道」はアメリカにも偏在し、より情景が浮かびやかったからかもしれない。物語にせよ会話にせよ、触れた刹那、後ろ髪を引かれたあの日に飛ばされたり、魂が震えるような共鳴を覚えることがある。それは腹の中に沈殿し、ふとした折に、まるで遠い親戚のように突如姿を現す。そして、あぁ作者の視ているのはこの景色なのか、と不思議な既視体験に繋がるのだ。頭に描くことのできない作品は、他人に受け入れられない。俳句という制限された文字数では、芭蕉の描く景色をアメリカ人に伝えるには、少し難易度が高い。

 

グローバル化という言葉がある。世界どこでも通用する、という意味らしいが、言い換えてしまえば、今の場所で特段に必要とされていないモノ、と置き換えることもできる。グローバル人材という、トイレットペーパーの芯のような空洞を感じさせるを薄っぺらい言葉も同様だ。「海外経験のある」「英語ができる」だけの人材は、同じ背景の人材が増えるとともに、乱暴な言い方をすれば、いくらでも替えのきく人材になっていく。今でこそ海外経験があったり、英語が喋れたりといった人材は貴重価値があるが、コモディティ化された後にも現在ほど持ち上げられるか、甚だ疑問である。

 

住んでいる地域で必要とされ、何かしらの貢献をしてコミュニティを築いている人は、グローバル化から最も遠い存在にある。近所をはじめとした人間関係は、一朝一夕で築けるものではない。雨が土に染み込むかのように、じわじわと熟成されていく。彼らがグローバル化から程遠いのは、特に世界で活躍してもいないし、英語を使ってもいないからだ。その土地にとどまり続けろと言っている訳では決してない。海外での経験を活かしている人は、素晴らしいと思う。ただ、グローバル人材の方がもてはやされ、その土地で粛々と生きている人間が低く見られるような世の中になっては、品のない国になりそうだと危惧している。

 

理想の国などない。どの国にも必ず問題がある。外国暮らしをした人はわかるかもしれないが、その美しい景色と引き換えに、不便さがあったりする。アジア人だという理由だけで、言われのない差別を受けたりすることだってある。もちろん、日本にも悪いところがないわけではない。若い頃は、この国を出たくてたまらなかった。結局、自身の問題を国のせいにしていたのだと気づいたのは、三十過ぎてからだろうか。随分と遅いが、まあ、そんなものだ。生活から生じる不満を国のせいにしている限りは、どこの国に住んでも幸せになれない。

 

以前は子供の教育のために海外に住みたいと思っていたが、子供からすればはた迷惑な話である。「お前のために、この決断をした」と言われるほど、嫌なことはない。自分も母親から「あなたの教育にいいと思って、学区が良い場所に引っ越した」と常に言われるが、小中学校時代の嫌な記憶が蘇り、つい毒づいてしまう。能力がない故に権力を振りかざすしかない教師と、思春期特有の同調圧力を課してくる生徒たちに馴染むことができず、ランドセルいっぱいの孤独を背負っていた惨めな日々が目前に広がるからだ。公立の学校なんて、どこに行っても同じだったのだ。それを「あなたの教育のために」と強調されてはたまらない。学区が良いかなんだか知らないが、家は狭くプライバシーも何もなかったので、一軒家に住む友達がただ羨ましかった。地方都市にありがちな監視し合うような人間関係に辟易とし、誰もいない山奥で暮らしたい、と小学生の頃から隠者のような夢を抱いていた。

 

人は同じ過ちを繰り返す。自分の子供に、まさに同じ呪いをかけようとしていた。「あなたのため」という言葉ほど、甘い毒はない。自分だけでなく、相手の思考も停止させる。与えることで自分に失うもものがなければ良いが、自分の人生を相手のために捧げてはいけない。

 

芭蕉の生前最期の句の一つに「旅に病んで 夢は荒野を駆け巡る」がある。死ぬ前に「もっと自分の好きなことをやって生きれば良かった」と思う人は多いという。死ぬ前に何を思うか、どこを駆け巡りたいか。その期に見たい景色に向かって、自分のために生きる。少しずつでもいいからやってみてもいかがだろうか。レストランで子供が好きそうなものを頼むのではなく、子供は子供の分で、自分は好きなものを食べるというような小さなきっかけでもいい。あなたの子供なら、きっと聡い。親の幸せそうな顔とともに、呪いから解放してあげることこそが、子供にとって何よりも嬉しい贈り物なのだから。

親の責任ビジネス

「親の責任ビジネス」が流行っている。

 

子供の言動で悩んでいる親に向けた、お金を取って相談に乗ってあげたり、解決策を示してあげるビジネスだ。根っこは共通していて、「それは全て親のせい」。共働きで母親が仕事に打ち込みすぎたから愛情不足だとか、下の子が生まれてそっちに意識が行っているから注目されたいだとか、砂糖を含んだ菓子を食べさせているからだとか、まあそういうものだ。

 

この手のビジネスがなぜ成立するかというと、子供には全員必ず親がいるからである。子育てとは暗いトンネルのようなもので、その過程は何処にたどり着くか分からない出口を、小さい灯りを頼りに進んでいくようなものだ。出た先に果たして鬼が出るか蛇が出るか、着いた者にしか見えない景色が広がり、それが出口とも限らない。「子育ての成果」から来る自信は、全て後付け。子育て中の母親にはつけ込むみやすい構造になっている。

 

メディアや著書で大きい顔をして子育てを語っている親は、子育てを完璧に仕上げたという印象を周りに振りまくために「偏差値の高い大学に出ることが、子育ての正解だ」というメッセージを発する。子供を東大に入れたところまではいいけれど、在学中にうつ病になってしまい、卒業後にニートになった......とは、決しては語らない。そもそも偏差値の高い大学を出て大企業に入れることが本当にそれが幸せなのだろうか。「うちの子供はFランの大学出だけど、中小企業で働きながら、好きな漫画で副業をしつつ、生活は決して裕福とは言えないけど、幸せそうですよ」という話は決して表に出てこない。別に、お金が生まれないしね。

 

ここで利害関係のないママ友の存在があれば、話は違ってくる。地域のママ友に悩みを打ち明け、「うちもそうだよ!この前なんていきなりズボン下ろして、裸で駆け回ってたよ!」などと返してもらえれば、「なんだ、みんな同じようなものなのか……(しかも、うちよりマシだな)」と思って、解決にこそはならないが、なんとかやり過ごすことができる。子供を含め、他人は変えることができない。自分の心の持ちようを変えるしかないのだ。

 

また、子育ての悩みは、ほぼ時間が解決してくれると言ってくれてもいい。時間に解決を任せることができない理由は、親が子供を思い通りにできるという思い上がり甚だしいコントロール思考か、ただ、暇だからである。贅沢な悩みとも言える。どうしても外では、周囲の子供のお行儀の良い所ばかり目につく。「どうして、うちの子供だけ、こんなことになっているんだろう……」と、思考の沼にすぶすぶと足を踏み入れてしまい、蜘蛛の巣のように張り巡らされた親の責任ビジネスの罠に嵌ってしまう。子供の性格は55%が遺伝、20%が友達などの環境と言われている。親の影響はたかだか10%くらいだという。その1割を変えようと奮闘するよりも、自分の考え方を変えたほうが早い。

 

ただ、職場と保育園の往復では、利害関係のないママ友と話す機会というのが減っている。コロナの影響もあるだろう。親の責任ビジネスを流行らせるには、うってつけの環境なのである。限られた人間としか交流できない環境を設定するのは、新興宗教の手口と似ており、情報源を信者のみにすることに目的がある。大なり小なり、どこでもこういったことは行われている。

 

本人が幸せで誰にも迷惑をかけていないならいいが、新興宗教や親の責任ビジネスの厄介なところは他人を勧誘したり、独特の世界観を展開するところにある。一言で表すと、ウザい人になるのである。そうすると、もうあとは孤独の迷宮に入り込むしかない。そこで待ち構えているのは、ギリシャ神話の怪物ミノタウルスよりももっと恐ろしい、人間関係を多種多様なものにできなくなる呪いであり、その後の人生に暗い影を落とす。

 

この親の責任ビジネス、誰もが1度は引っかかったことがあるのではないだろうか。妊娠中からすがるように育児書を読み、年齢が高い子供を持つ母親たちが適当な育児をしているのを口で承認しつつ、腹の底では「私は絶対にそんな育て方はしない」と暗い炎を燃やしている。厄介なことに、最近は何の気なしに開いたインターネットやSNSでも、この手の投稿が溢れている。やり方は簡単だ。読者が感じているだろう課題を投稿して、小さな解決策を示してあげる。すると「誰にも話せない自分の悩みも、この人は解決してくれるのかもしれない」という期待を抱かせることができる。なんともせこいビジネスだが、資本主義とはそういうものだ。母親であるということは、SNSを見ると一目瞭然なので、マーケティングもやりやすい。

 

この手の投稿が溢れるようになって、ほぼプライベートのアカウントは見なくなってしまった。「お前の子供の問題行動は、全て母親のせいだ」と言われているようで、疲れるのである。リラックスするためにSNSを見ているのに、「SNSなんて見てる場合じゃないぞ、すぐ子供に対してこんなことをしてあげなさい」と叱責しているような気分になる。

 

この親の責任ビジネスはなくなるどころか、むしろ加速していくと予想している。そうならないためにも、リアルで人と会うということはぜひ、お母さん達にも推奨していきたい。今は子育て支援センターなど、公的な施設も充実してきている。そこで「うちの子だけ劣っているわけでもないし、優れているわけでもない。どれも大して変わらないんだな」という、全く毒にも薬にも、金にもならない思想に行き着くだろう。お母さん達と話した帰り道にコーヒーでも飲んで、子育てと言う暗闇の洞窟を、ゆっくり歩いて行けばいい。足元を照らしたら、夢中で前だけ向いて歩いている時には決して見ることのなかった、可憐な花の存在に気づくことができるかもしれない。

橋を渡る

海浜幕張海浜公園橋を渡ると、いつも考えてしまう。あの世へ行く時も同じ景色を見ているのだろうか、と。

 

日曜日に、幕張海浜公園に行った。4歳長男と2歳長女、3ヶ月の次女も一緒だ。公園で少し遊んでアウトレットへ行く予定だった。駐車場付近にはバーベキューができる広場があり、隣接する広大な芝生を横切ると、子供用の遊具がある場所に行くことができる。

 

ただ、長男は遊具の数が多くなかったこともあり、すぐに飽きてしまったらしい。「冒険に行きたい」と言い出した。アウトレットから遠ざかるのは嫌だなぁと心では思いつつ、時間があるので付き合うことにした。

 

遊具の置いてある場所から少し離れたところに、鬱蒼と茂る森へと繋がる橋がある。橋の両側には花壇が並び、手入れしている人の几帳面さが伝わってくるほどに整えられていた。色とりどりの花たちが橋を飾っている様子は、向こう側に見える渡った先に広がる深い緑色とは、皮肉な程に対をなしていた。

 

長男に手を引かれて、長女と橋を渡る。森を抜けると、若者の喧騒で賑わうバーベキュー会場やピクニックで埋め尽くされた芝生とは打って変わり、穏やかで凛とした日本庭園が佇んでいた。人数は少なく、老夫婦が散歩していたのみだ。桃紫色が美しい芝桜も見ることができ、目を楽しめることができる。

 

大量生産をし続ける工場からそのまま出てきたかのような、巨大な建物が並ぶ郊外。まるで誰かの忘れ物であるかのように、唐突に桃源源郷があることに違和感を感じつつ、その清廉さに惹き込まれてしまう。聞こえるのは長男と長女の声と、木の葉がこすれる音だけである。雑音にまみれた日々の中で、彼らはこんな声をしていたんだっけ、と、ただ佇むのみであった。

 

子供は様々な景色を見せてくれる。人の醜い面であったり、良いものばかりでは決してないが。子供が連れてきてくれなかったら遊具で遊んで、すぐにアウトレットへ向かっていたことだろう。予定通りの人生を生きて、予定通りに行くと安心する、いつの間にかそんな毎日になってしまっていたのかもしれない。長男から「冒険に行こうよ」と言われた時、正直「予定かが狂うなぁ、嫌だな」と思ってしまった。枯れていく木のような心の持ちようである自分を、省みる機会となった。

 

帰り道、橋を渡りながら振り返ると、そこには楽しそうに花を摘む長男と長女の姿があった。自分が彼岸に行く際に見える景色と重なり、注意することも忘れ、しばらく動くことができなかった。私が彼岸に行く際も、出来れば今みたく笑っていて欲しいものだ。勝手に花を摘むという行為はいけないことだけど、叱責する声は、その時はもう、もう届かない。

 

何かの映画で、男の子が冷蔵庫から出した牛乳にそのまま口をつけて飲んで、「しまった。ママに怒られる」と思い、直後に「いつも注意してくるママは、もう死んでしまったのだ」と思い直すシーンがある。そんなものなのだ。日常の中でぽっかりと空いた穴を以て、人は死者を想う。空洞は徐々に塞がっていき、ゆっくりと忘れ去られていく。不在をして故人を想うとは矛盾した行為に思えるが、全てが理路整然とした花壇のようにできているわけではないから仕方ない。思想まで判子で押したように、同じようなビルにまみれてしまってはたまらない。

 

幸いまだ生きているので、彼らと冒険をして、行き先の分からない橋を渡り続けようと思う。今は私が彼らの手を引いているが、いずれ手を引かれる日があるのかもしれない。自分が手を引いていた過去と、手を引かれる現在。二つの記憶が、走馬灯のように交差するのであろうか。いつか本当の橋を渡るその日にしか、答えは分からない。

男のプライド、悲しい氷山

男というものは、自尊心で作られたの氷山のようなものである。

 

昨晩、長女が戸棚にしまってあった私の長財布からお札を抜き出し、紛失させるという事件が起きた。すぐに見つかるだろうと思って家庭内を捜索したのだが、案外見つからない。さすがの私も焦ってきて探しているのに、夫はのんびりした感じで、長女本人も全く探しておらず、全く協力してくれない。家族と過ごしているはずが、孤独とはこういうことなのだな、と噛み締めた。

 

やるせない思いになりつつ探し回る私へ、夫は「そんなに長女に対して怒らなくてもいいじゃない」「手に取れるような場所に置いておく方が悪いんじゃないの」と毒を吐いてくる。これが相当堪えた。応対するのも面倒なので、無視をし続けていた。

 

やっとのことで見つかり安堵した直後、「子供にあんまり感情的になって怒るものじゃないよ」と正論をぶつけてきて、ここで私の怒りが爆発した。あれがダメだ、これがダメだと、とにかく口うるさい彼である。やれテーブルクロスが気に入らない、キッチンのシンクを常にきれいにしておけ、子供達が朝ごはんを食べてる時に洗濯物をするな……、とにかく神経質で、わがままなのである。

 

普段は適当に受け流せるのだが、その日はお腹がとにかく痛く、心身共に言葉を受け付けていることもできる状態ではなく、「そうやってダメだしばっかりするのやめてくれない?少しは共感してよ!」と、本音が出てしまった。すると、私が反撃するといつもなるのだが、彼は「もういいよ……」と言い放ち、拗ねた顔をして寝室に引きこもってしまった。

 

これが三歳の男の子ならかわいいものだが、もういい年をしたおじさんがやっているのだから、相当タチが悪い。とりあえず子供達に歯磨きをさせて、絵本を読んで寝かしつけた。しばらくして、微塵も自分悪いとは思っていなかったが、とりあえず翌日は土曜日なので、翌日の機嫌に響くと後々面倒だから、寝室へ行き「さっきはごめんね」と謝った。だが、謝罪の言葉だけど不満なのか、引き続き仏頂面をしたまま、スマホを持ってトイレへ入っていってしまった。

 

夫の自尊心は氷山のように高い。普段は世間体や理性という海面によって大部分が隠されているのだが、潮が引いてしまうきっかけがあると、そのそびえ立つプライドが姿を現すのだ。それは学歴社会における強者の奢りであり、自分が正当に扱われていない社会と家庭への不満でできた、悲しいハリボテのような山であった。

 

体だけが大きくて、中身は幼稚。とにかく機嫌が悪くなると一切言葉を受け付けなくなるのは、勘弁していただきたい。時たま「もっと別の人と結婚すれば、今頃は……」と過去の自分を悔いるのだが、まあ結婚なんて誰としても一緒のようなものだろう。結局、1人でいれば楽だという事実は変わらない。

 

巨大豪華客船が氷山に激突してぶっ壊してしてくれればいいが、現実はそうもいかない。幼い頃から培われた自尊心という氷山は悲しくそびえ立つ。生き物も寄せ付けず、船からも避けられ、ただ悲しく海にたゆたうのみである。再び潮が満ちてきて、海水で覆われてくれることを、ただ待つばかりである。

孤独とカレーライス

春の暮れだというのに、裏切るように寒い雨が覆う一日。残り物のカレーライスを遅い昼飯として摂っていると、ふと将来訪れるだろう、孤独が体に染み渡った。

 

今でこそ「1人の時間が欲しい」とシッターさんにお金を払うように、孤独が贅沢品と化しているのだが、将来は全く逆転するのであろう。実家の両親が新幹線のお金を払って、はるばる孫に会いに来てくれているのと、姿と自分が重なる。

 

幸せとは空中に漂う蜜のようなもので、吸ったら消えてしまう。日常から幸せを掬い上げようと試みても、目に見えない。一方で不幸は分かりやすく、そこらで待ち構えており、油断するとすぐ餌食になってしまう。幸せは、行くあてもなく歩いている時に嗅いだ金木犀の香りのように、唐突に訪れる。

 

三人目の産後、何の気まぐれか初めて夫が保育園のお迎えに行き、四時半頃、家に帰ってきたことがあった。普段は私が迎えに行っており、大人一人に対して子ども三人で夕刻は過ごすのだが、大人二人に対して子供三人を見る時間とはこんなに楽なのかと、驚愕した。結局、いつも余裕がないのだろう。

 

母親は、育児と家事だけやって居れば良いのではない。それは男性が思い描く理想像であり、女性をやわらかい綿でじわじわと縛る。母親にも連絡を取るべき友人がいて、ぼーっと思いを巡らす時間が必要で、ちょっとした人には言えない趣味を楽しむ時間も必要なのだ。これらを一切遮断して、家事と育児だけに幸せを見出そうとすると、きっとしんどい。なんとかそうして乗り切ったとしても、将来若い母親をとっ捕まえて「お前も苦労すべき」といったように、昨今よく話題に上がる「俺も昔は残業ばっかりしてたから、お前も頑張るべき」と自分のかけられた呪いを永若い世代にもかけ続ける、迷惑な上司のような存在になりかねない。

 

それにしても、1人の時間を確保するのは手間も金もかかる。そんな手間も金もかけて、疲れて1人の時間を確保するくらいなら、赤子の耳くそや鼻くそが取れて達成感を覚えるといったように、幸せの閾値を下げる方が簡単なので、そうすることにする。平日の昼間から赤ん坊と布団にくるまり、張り詰めた寒気を顔で感じながら、外に出なくてもいい幸運を噛み締めるのもおすすめである。

 

最近、もうすぐ5歳になる長男は、公園で母親とでなく友達と遊ぶようになった。こうやって親から離れていく姿を片目で見つつ、片目はまだ手のかかる生後3ヶ月の次女を捉える日々である。その間を、2歳の長女が駆け抜ける。美味しくも不味くもないカレーライスをたいらげると、ふと、早く大人になってくれと思いつつも、今この瞬間が永遠に続けばいいのにと、逆説的な願いが浮かぶのだった。

ドブの匂いで恐縮です

耽美でやわらかな雨が降り注ぐ春の朝。茨城の笠間美術館で夫と交わした会話を思い出した。

確か、ゴッホの生涯についてだったと思う。ゴッホは生前に絵が1枚しか売れなかったにも関わらず、絵を描くことをやめなかった。
夫は「絵を描いたり、文を書いたりする人って、何で書こうと思うか、全く分からないんだよね」と言った。うまく答えることができず曖昧に返事をして、時が流れた。

それに対して解のようなものが、文豪の一生をたどると、暗がりに目が慣れてくるように、ぼんやりと見えてくる。
絵を描いたり、文を書くのに、理由なんてない。「他にやることがなかったから」と言ってしまうと乱暴にはなるが、そんなものだ。

お金になるとか、誰かに向けたメッセージとか、高尚なものではない。むしろ「職場で二人以上の同僚と不倫している」という泥沼の恋愛や、「自分は本当にすごいのに、なんであいつの方が認められているんだ」などといった薄汚い自己肯定感を、書くことで昇華させているのだ。負の感情だけではなくて、これは欲求にも言える。

江戸川乱歩は、人肉を食す欲求や、男色の趣味があった。
これは現実世界でやってしまうと牢屋にぶち込まれるが、江戸川乱歩は見事に小説の世界でやってのけている。

少年探偵団の描写は「りんごの頬のような少年」という描写が出てくるが、これはなかなか一般の男性にできる描写ではない。
また、少年探偵団の爽やかなイメージが強いが、初期の作品はもっとおどろおどろしい、下水道に迷い込んだかのような緊張感のある作品を書いている。

「文豪たちは一筋縄ではいかない欲望や感情を、作品にぶちまけている」と知ると、許しを得た気がしないだろうか。
日本人は、他人を憎んではいけない、妬んではいけない、と言われ続け、そのような感情をずっと封じてきたきらいがある。ましてや、世の中に出すなんて考えられないだろう。

ただ、誰もが臭気に耐えかねて蓋を覆っていた排水溝のような思想に、人々はどこか懐かしさを覚える。
そして「これ以上は近寄っていけない」と分かりつつも、真夏の夜に蛍光灯に集まる虫の如く、ふらふらと惹かれてしまうのだ。

自分も、ドブの匂いをもっと全面に発していこうと思う。友達失いそうだけどね。
まあ、それでも付き合ってくれる人とだけ過ごせばいいか、と思えるようになった。年をとるにつれて、孤独に強くなったのかもしれない。

この悲しい成長を賛美するかのように、雨は依然として、東京の空を濡らし続けるのであった。