コーヒー1杯分の幸せを作ろう

3児の育休ママが、コーヒー1杯分の時間やお金を作るために役に立ったものたちを、挫折や試行錯誤の経験を交えながら紹介します。

ドブの匂いで恐縮です

耽美でやわらかな雨が降り注ぐ春の朝。茨城の笠間美術館で夫と交わした会話を思い出した。

確か、ゴッホの生涯についてだったと思う。ゴッホは生前に絵が1枚しか売れなかったにも関わらず、絵を描くことをやめなかった。
夫は「絵を描いたり、文を書いたりする人って、何で書こうと思うか、全く分からないんだよね」と言った。うまく答えることができず曖昧に返事をして、時が流れた。

それに対して解のようなものが、文豪の一生をたどると、暗がりに目が慣れてくるように、ぼんやりと見えてくる。
絵を描いたり、文を書くのに、理由なんてない。「他にやることがなかったから」と言ってしまうと乱暴にはなるが、そんなものだ。

お金になるとか、誰かに向けたメッセージとか、高尚なものではない。むしろ「職場で二人以上の同僚と不倫している」という泥沼の恋愛や、「自分は本当にすごいのに、なんであいつの方が認められているんだ」などといった薄汚い自己肯定感を、書くことで昇華させているのだ。負の感情だけではなくて、これは欲求にも言える。

江戸川乱歩は、人肉を食す欲求や、男色の趣味があった。
これは現実世界でやってしまうと牢屋にぶち込まれるが、江戸川乱歩は見事に小説の世界でやってのけている。

少年探偵団の描写は「りんごの頬のような少年」という描写が出てくるが、これはなかなか一般の男性にできる描写ではない。
また、少年探偵団の爽やかなイメージが強いが、初期の作品はもっとおどろおどろしい、下水道に迷い込んだかのような緊張感のある作品を書いている。

「文豪たちは一筋縄ではいかない欲望や感情を、作品にぶちまけている」と知ると、許しを得た気がしないだろうか。
日本人は、他人を憎んではいけない、妬んではいけない、と言われ続け、そのような感情をずっと封じてきたきらいがある。ましてや、世の中に出すなんて考えられないだろう。

ただ、誰もが臭気に耐えかねて蓋を覆っていた排水溝のような思想に、人々はどこか懐かしさを覚える。
そして「これ以上は近寄っていけない」と分かりつつも、真夏の夜に蛍光灯に集まる虫の如く、ふらふらと惹かれてしまうのだ。

自分も、ドブの匂いをもっと全面に発していこうと思う。友達失いそうだけどね。
まあ、それでも付き合ってくれる人とだけ過ごせばいいか、と思えるようになった。年をとるにつれて、孤独に強くなったのかもしれない。

この悲しい成長を賛美するかのように、雨は依然として、東京の空を濡らし続けるのであった。