コーヒー1杯分の幸せを作ろう

3児の育休ママが、コーヒー1杯分の時間やお金を作るために役に立ったものたちを、挫折や試行錯誤の経験を交えながら紹介します。

グローバル人材の謎

アメリカで最も有名な俳句は、種田山頭火による「まつすぐな道で かなしい」。松尾芭蕉の「古池や 蛙飛び込む 水の音」ではない。

 

芭蕉は全国を旅して作品を編み上げたが、アメリカ人にとって日本の風景はあまり馴染みのあるものではない。種田の描く「まつすぐな道」はアメリカにも偏在し、より情景が浮かびやかったからかもしれない。物語にせよ会話にせよ、触れた刹那、後ろ髪を引かれたあの日に飛ばされたり、魂が震えるような共鳴を覚えることがある。それは腹の中に沈殿し、ふとした折に、まるで遠い親戚のように突如姿を現す。そして、あぁ作者の視ているのはこの景色なのか、と不思議な既視体験に繋がるのだ。頭に描くことのできない作品は、他人に受け入れられない。俳句という制限された文字数では、芭蕉の描く景色をアメリカ人に伝えるには、少し難易度が高い。

 

グローバル化という言葉がある。世界どこでも通用する、という意味らしいが、言い換えてしまえば、今の場所で特段に必要とされていないモノ、と置き換えることもできる。グローバル人材という、トイレットペーパーの芯のような空洞を感じさせるを薄っぺらい言葉も同様だ。「海外経験のある」「英語ができる」だけの人材は、同じ背景の人材が増えるとともに、乱暴な言い方をすれば、いくらでも替えのきく人材になっていく。今でこそ海外経験があったり、英語が喋れたりといった人材は貴重価値があるが、コモディティ化された後にも現在ほど持ち上げられるか、甚だ疑問である。

 

住んでいる地域で必要とされ、何かしらの貢献をしてコミュニティを築いている人は、グローバル化から最も遠い存在にある。近所をはじめとした人間関係は、一朝一夕で築けるものではない。雨が土に染み込むかのように、じわじわと熟成されていく。彼らがグローバル化から程遠いのは、特に世界で活躍してもいないし、英語を使ってもいないからだ。その土地にとどまり続けろと言っている訳では決してない。海外での経験を活かしている人は、素晴らしいと思う。ただ、グローバル人材の方がもてはやされ、その土地で粛々と生きている人間が低く見られるような世の中になっては、品のない国になりそうだと危惧している。

 

理想の国などない。どの国にも必ず問題がある。外国暮らしをした人はわかるかもしれないが、その美しい景色と引き換えに、不便さがあったりする。アジア人だという理由だけで、言われのない差別を受けたりすることだってある。もちろん、日本にも悪いところがないわけではない。若い頃は、この国を出たくてたまらなかった。結局、自身の問題を国のせいにしていたのだと気づいたのは、三十過ぎてからだろうか。随分と遅いが、まあ、そんなものだ。生活から生じる不満を国のせいにしている限りは、どこの国に住んでも幸せになれない。

 

以前は子供の教育のために海外に住みたいと思っていたが、子供からすればはた迷惑な話である。「お前のために、この決断をした」と言われるほど、嫌なことはない。自分も母親から「あなたの教育にいいと思って、学区が良い場所に引っ越した」と常に言われるが、小中学校時代の嫌な記憶が蘇り、つい毒づいてしまう。能力がない故に権力を振りかざすしかない教師と、思春期特有の同調圧力を課してくる生徒たちに馴染むことができず、ランドセルいっぱいの孤独を背負っていた惨めな日々が目前に広がるからだ。公立の学校なんて、どこに行っても同じだったのだ。それを「あなたの教育のために」と強調されてはたまらない。学区が良いかなんだか知らないが、家は狭くプライバシーも何もなかったので、一軒家に住む友達がただ羨ましかった。地方都市にありがちな監視し合うような人間関係に辟易とし、誰もいない山奥で暮らしたい、と小学生の頃から隠者のような夢を抱いていた。

 

人は同じ過ちを繰り返す。自分の子供に、まさに同じ呪いをかけようとしていた。「あなたのため」という言葉ほど、甘い毒はない。自分だけでなく、相手の思考も停止させる。与えることで自分に失うもものがなければ良いが、自分の人生を相手のために捧げてはいけない。

 

芭蕉の生前最期の句の一つに「旅に病んで 夢は荒野を駆け巡る」がある。死ぬ前に「もっと自分の好きなことをやって生きれば良かった」と思う人は多いという。死ぬ前に何を思うか、どこを駆け巡りたいか。その期に見たい景色に向かって、自分のために生きる。少しずつでもいいからやってみてもいかがだろうか。レストランで子供が好きそうなものを頼むのではなく、子供は子供の分で、自分は好きなものを食べるというような小さなきっかけでもいい。あなたの子供なら、きっと聡い。親の幸せそうな顔とともに、呪いから解放してあげることこそが、子供にとって何よりも嬉しい贈り物なのだから。