コーヒー1杯分の幸せを作ろう

3児の育休ママが、コーヒー1杯分の時間やお金を作るために役に立ったものたちを、挫折や試行錯誤の経験を交えながら紹介します。

近くの言葉は退けられ、遠くの言葉は届けられる

吉本隆明は、言葉の遠隔対称性について「近くの言葉は退けられ、遠くの言葉は届けられる」と語る。

 

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これは思い当たる節が多い方もいるのではないだろうか。夫から「もっと子供を大事にしたらどうだ。仕事なんて後からでもできるだろ」と言われると「その言葉、そっくりそのまま返してやろうか」と腹が立つのに対して、自分の尊敬している人の著書などで「自分の人生の軸は何かよく考えなくてはならない。子育ての時期は一瞬で、しかも取り返しがつかないのだから」という趣旨のものがあると、深く心に染み渡るのと似ている。

 

近くの人から何か言われてしまうと、自分が非難されている気持ちになるからだろう。言葉は一対一で届けられた時、相手に向けたメッセージとなる。その点、本は自分で受け取るメッセージを選ぶことができる。都合の悪いところは読み飛ばせばいいし、興味のない章は飛ばせばいい。

 

SNSも同じだ。ただし、どうしても見たくないゴシップなどの情報や、幸せのマウントを取り合う様子が目に入ってくる。その様な情報を一つずつミュートしていけばいいのかもしれないが、その手間を考えると、SNSは一切やる気にならないというのが正直なところだ。自分の見たい情報だけが目に入るようになれば、まるで読書のように快適なSNSになるんだろうけれど。

 

SNSで、きっと誰もが億劫だと思っているのは、コメントに対する返信ではなかろうか。誰からもコメントがもらえないと、それはそれで寂しい気持ちになるのだが、過去の投稿に対してコメントがあると「このコメントに返信してない癖に、新しい投稿をするのもちょっと気が引けるな。新しい投稿はもう控えようか」というサイクルに陥ってしまう。

 

お誕生日おめでとう、などの一言メッセージへの返信も、本当に難しい。単にワンフレーズだけのコメントにはスタンプで返せれば済むのだが、一言添えてくれる友人に、スタンプだけで返すのはなんだか気が引けてしまう。

 

そこで知人と「SNSへのコメントを外注できるビジネス」を立ち上げよう、という話になった。

 

自分の投稿に対するコメントに返信に使うもよし、ビジネスアカウントとしてフォロワーを増やしたいが為に新しくコメントするでも良し。プログラミングでは限界を感じるので、外注でやることにする。フォロワーが増えたら、成果報酬型でコメントをしてくれた人にもバックが入る……といった仕組みだ。

 

なんだか実のないビジネスだが、とりあえず食うために金は必要なので仕方ない。そんなことを言い始めると、このようにあるもの8割ぐらいはしょうもない仕事になってしまう。やりたい職業に就いて食べていくには、あまりにこの世は世知辛い。このビジネスを始めると一気に私のSNSに対するコメントが減りそうだなので、代表には知人を立てることにしよう。

 

個性という幻想

西洋風の「生まれた時から変わらない私という軸があって、その延長線上に現在の自分がいる」という考え方が取られがちだが、これは日本人にはそぐわない。

英語やフランス語など外国語では、絶対にI・Youなど主語を発音するが、日本語では「私は」と言わなくても伝わる。「お茶が入りました」などはまさに日本語独特の表現だ。お茶が受け身になるのも違うし、言葉を発した人間がお茶をいれたとも限らない。これは「私」というものを消しても伝わるという、日本人の価値観を表している。変わるんですよ、人なんて。3日前と今の細胞なんて、全く入れ替わってるわけだし。

中高一貫校でしんどいのは、キャラ変やらができないことと、この本の中で内田樹が述べていた。
沈黙する知性
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中学高校なんて、それこそ好きな子によって服装や聞いてる音楽も変わるんだから。変わらない友人なんて幻想だし、美しい心を持った娼婦なんてものも存在しない。そんなのが溢れた世の中なんて、しんどいもんね。

余所行きの文章

文豪が書いた私用の日記が、とにかく面白い。

作品や公表している日記が余所行きに綺麗にラッピングされた商品だとすれば、私用の日記は商品を出すために作られた試供品、ただし出来たてでとてもおいしいものだ。そこには生活があり、葛藤がある。食べたものに始まり不倫まで、語られない多くの言葉たちが、文豪なだけあって、美しい言葉で並んでいる。

高校の頃、同級生たちが書いたブログを読むことが好きだった。彼(女)らの言葉は自分に向けたものであり、特に見られていることを意識していない。そこには秘めた思いや、なかなか成績が伸びないことへの悩みや、これからは勉強しようなどといった決意が、泡のように浮かび上がっては消えていた。

他人のブログを読まなくなったのは、いつからだろう。こういう風に読ませたい、こういう自分も見てほしい、あるいは物を買わせたい、と大人になるにつれて、急速につまらなくなっていったのだ。

人の目を意識した文章というのは、よほど自分がその思想に共感できない限り、胸に刺さらない。 共感はできないとはいえ心から綴った文章というのは、胸に刺さるものがある。上手く書くことは、誰だってできる。ただし、それが人の心に響くかどうかは別の話だ。

島崎藤村は四十歳の頃、十九歳の姪っ子と恋愛をしていた。父親も近親相姦をしていたし、母親も姦通をしていたし、まぁすごい一族だったのだ。島崎藤村も例に漏れなかった。姪と恋をしていた時に、島崎藤村は葡萄酒という隠語を使って素晴らしい作品を残している。関係がばれかけて彼は逃げるようにフランスに行くのだが、日本に帰国してからもまた関係を持っている。彼はとにかく粗食だったのだが、粗食で性欲が旺盛というのはどうやら割と良くいるタイプらしい。

粗食と言えば、樋口一葉だ。彼女はあまりに粗食で、葬式に森鴎外が馬で駆けつけようとしたところ、妹が「こんな粗末な食事を出すために森鴎外なんてすごい人を呼べない」と断ったほどであったらしい。

有名になったら、日常をただ綴っただけの日記を読まれてしまうのだろうか。絶対に読まれたくない。小学5年生から毎日日記をつけているが、確実に燃やしてほしい。持ち主が死んだら日記を花火のように爆破してくれるサービスが存在したら、ぜひとも申し込みたい。まぁ有名になることはないだろうから、安心してここには綴る。このブログには出してる文章は氷山の一角、比較的ましなもので、日の目を浴びていない文章が山ほどあるのだが、それは将来登場するであろう爆発屋に任せることにする。

本【文人悪食】

文人悪食」という嵐山光三郎さんの本がとても面白かったです。
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夏目漱石芥川龍之介など、文豪たちのちょっと変わった食の習慣を紹介しています。森鴎外がまんじゅうをお茶漬けにしてご飯とともに食べていたのは有名なお話ですが、この本はよく調べられていて、背景なども書かれています。決しておかたい本ではなくて、「神経症で胃が弱いのに食欲だけは旺盛だった夏目漱石」や「細菌の研究をしたがばかりに潔癖症になってしまい、果物を生で食べなかった森鴎外」など、くすりと笑えるお話が溢れています。

どうも最近ハウツー本ばかりがベストセラーに並んでいて「なんだか下品な国になったな」と思っているので、反骨精神から、役に立たないような本を選んで読んでいます。はい、あまのじゃくですね。性格の悪さがチラチラ見えてしまうので困ります。建築家の方が書いた、漫画やアニメの間取りを書いている本も小さな狂気を感じることができて、こういった売上を目的としていないものを見つけると、嬉しくなってしまいます。

どうも自己承認欲求が強い人達が溢れているなと、さっこの日本に危機感を感じています。「お前もな!」と9割の方が思いましたね、まあそれは置いておきましょう。森鴎外が「森鴎外ととしてではなくて、(本名の)石見人森林太郎としては私は死にたい。決して宮内庁の職人として死んだ、なんて取り扱わないでくれ。むしろ宮内庁としての肩書きなんて捨ててくれ。」と言っていたのを見習いたいですね。それにしても、森林太郎ってちょっとすごい名前ですよね。当時は割とよくいる名前だったんでしょうか。それともキラキラネームだったんでしょうか。石見人森林太郎だったら、現在、文豪として名を連ねていたのかどうか、いささか疑問です。

話題がそれました。この方、著者紹介に「1年のうち8ヶ月は国内外を旅行をしている」とあって、まさに私の理想とするライフスタイルです。まあ、内田樹は「グローバル化なんて、とんでもない。その地域になくてはならない人じゃなくなってしまうということだから、別にいくらでも替えの利く人間になるということじゃねえか」と言っており、それも分かるんですが。やっぱり新しいものを見たいという好奇心が勝っているので、子供3人連れてですが、ミニリタイアメント(いろんな国で旅をするように暮らす)ということはやりたいなと思っています。

都合のいい脳みそ

南町田のmontbellで、カヤックの体験をしてきた。

 

お店の傍に小さな池が設置してあり、店員さんが指導してくれる。見ていた時には簡単だろうと思っていたが、4歳の長男と一緒にボートに乗り込んでみると、見ていた時には簡単だろうと思っていたが、やってみると案外難しい。ボートなんていう優雅な名前ではなく、戦艦という名前がぴったりである。他の人にぶつかったり、壁にも激突ったりと、悪戦苦闘しながら戦艦の操縦に慣れてきた頃、息子から「もう怖いから降りたい…」という声が上がった。開始してから、たった5分後の出来事である。

 

確かに「ぎゃあ、転覆する!」とか「やばい、ぶつかる!」とか母親が後ろで叫んでいる中で乗っていた彼からしたら、ただの恐怖体験でしかなかったのかもしれない。そんなこんなで、初のカヤックは往復1時間かけて向かった場所で、ものの5分で終了となった。

 

5分で終了したにもかかわらず、私は充実感で満たされていた。脳みそというのは都合がよくできていて、きっと30年後には一瞬で終わった事実は忘れ去り、息子と二人で楽しんだ、という都合のいい記憶だけが残るのであろう。巻き添えにされた息子には、強風にあおられながら母親の叫び声を聞きつつ、転覆の恐怖と隣り合わせで過ごした時間、というトラウマだけが残ったかもしれないが。

 

脳の”忘れる”という機能は、生きていく上で、必須なんだろう。全てを覚えているなんて、SFの世界ではよくある話だが、きっとものすごくしんどい。忘れたい記憶なんて、たくさんある。生理の血がべっとりとスカートについていることに帰宅してから気づいた事、好きな男の子について書いた友達への手紙が拾われて、クラス全員にバレた事……ふとした瞬間に思い出してしまって、頭を抱えるなんてしょっちゅうだ。

 

子供との時間も、同じようなものだ。思い通りにならないジレンマと、良い母親になれないフラストレーションを感じる中、たまに訪れる幸せを発掘して、宝箱に大切にしまって生きていく。そんな生き方でいいのではないのだろうか。その方幸せに老いていける気がする。

 

このカヤックの体験、南町田にあるクランベリーパークというアウトレットの中にあるmontbellで行われていた。当初のアウトレットへ行った目的は、私はカヤックだったのだが、夫は私に新しい服を買って欲しかったらしい。私が週7日、上下全く同じ服を着ており、しかもその色がくすんできて、見るに耐えなくなってきたとのこと。ちなみに着ているのはユニクロの灰色のパーカーと、3箇所穴が空いている茶色のパンツである。この服たちも、こんなに着られるとは購入時には想定していなかっただろう。

 

春だし心機一転、赤や黄色やオレンジの服を買いたかったのだが、夫曰く「髪の色が明るいから、服まで明るくなると原宿にいそうな人みたいになる」と言われ、好みの服が全く合わない。こっちは早く、くすんだ色の服(元々なのか、経年劣化かすら不明)とおさらばしたいのだ。結果、腰痛対策の椅子と足タコ防止の靴下を買って、買い物は終了した。洋服屋で費やした時間よりも、健康用品店で費やした時間の方が2倍ほど多かった。

 

自分の身なりよりも、健康にお金を使う。都合の悪いことは忘れて、都合のいいことだけを覚えて生きていく。思考回路だけでなく、買い物一つとっても年をとったな、と実感する1日であった。

さようならば

春という季節がどうも苦手だ。別れを告げることが、うまくできない。卒業や転職などの節目でしっかりと今までのお礼とお別れの言葉を言うべきではあると頭で分かってはいるが、心の整理が追いつかず、有耶無耶にしてしまう。

 

こちらから別れの言葉を言わなければ、明日にはなんてことない日をして、いつもの日常を送れるような、淡い期待をしてしまう。チンケな恋愛歌詞みたいで我ながら辟易とするのだが、掌から零れ落ちている間は気がつかなかったくせに、全て消えてしまった時に初めて、今まで当たり前に享受していたものが実は自分を支えてくれていたのだ、と噛み締める。大体いつも「人間関係って面倒臭いな。早くこの生活が終わらないかな。ヨーロッパの山奥で、一人で暮らしたい……」と倦怠感を抱えつつ惰性で毎日を送っているから、別れの瞬間には後悔することになるのだ。もっと楽しんでおけよ、と過去の自分を叱りつけてたくなる。

 

子育ての時期も、きっとそうなのであろう。”這えば立て、立てば歩けの親心”、とはよく言ったものだ。1日に100万回くらい「しんどいな、早く大きくなってくれないかな、1人になりたいな」と感じているのだが、いざ大人になった暁には「あの頃は楽しかったな…」とかほざいているのであろう。つくづく、人は学習しない生き物である。

 

別れの挨拶は、中国語では”再見”。ドイツ語”ではAuf Wiedersehen”で、分解するとWieder(再び)sehen(見る)。フランス語では”Au revoir”で、分解するとre(再び)voir(会う)。また会いましょう、という意味を含んでいるものが多い。

 

一方で、日本語の”さようなら”は、単独では再会の意を含まない。語源は”左様ならば”、”それならば”で、一生の別れをつけるわけでもなく、また会えるともいうわけでもなく、うやむやにしている。これはしっくりくる。

 

きっと、昔の日本人は分かっていたのではないであろうか。当たり前に会えていた相手と、もう二度と会えないことが多いと。インターネットや交通手段が発達していない当時は、尚のことだ。また、季節は四つもある。早々と移ろいゆき、次の季節が到来する。いちいちきっぱりと別れを告げたり、再会を約束したりしていては、忙しくなってしまう。

 

季節そのものは巡って来るものの、去年と今年のそれは決して同じものではない。さようならば、仕方ないよね、と新しい日常に戸惑い、毎回同じような愚痴を言いつつ、なんとなく生きていく。

 

丸くなる産後

最近の研究によると、姿勢がその人の性格を決めるらしい。

 

産後は授乳や抱っこで前のめりになる事が多い。これでは猫背になってしまう。この背中を丸めるという行為、うつ病の人と共通している。だから、背中が丸い状態を続けていると、本当に鬱病になってしまうのだとか。産後うつの原因のひとつは、この姿勢とも言われているらしい。

 

姿勢が精神に影響与える。精神が姿勢に影響を与えるばかりと思われがちだが、面白い。姿勢だけでなく、容姿も関係する気がする。

 

産後に腰痛を発症したことはしつこいくらい書いている私も例に漏れず、整形外科で背中が丸いと指摘された。

 

しかし、もっと丸くなったところがある。残念ながら、(誰もがそうなればいいのにと望んでいるであろう)性格ではない。顔だ。

 

目で見えないのは現実ではない、という思想から、体重計は棚の奥深くにしまわれているため、増量したか計測をした訳ではないが、もう鏡を見ると一目瞭然なのだ。

 

マスクをしているので隠れるからいいかと言わんばかりに、ぬくぬくと冬眠しており、そろそろ春だから出てこようかな、と出てきたようだ。蓄えられた脂肪という奴は。それはお前そのものだろう、というツッコミはとりあえず置いておく。

 

緊急事態宣言が開けそうで、あたたかくなってきたこともあり、人と会う予定も増えてきた。

 

マスクを取ると、「この人、こんなに顔が丸いんだ……」とショックを受けられること、請け合い。いや、こんな保証はしたくないのだ。

 

ダイエットは、腰痛があるから出来ない。以前、体重が増えた時は、妊娠しているから減量は出来ないね、と言って食事制限から逃げた。いつも何かにつけて理由つけて、ダイエットから逃げている。

 

人間は、やらないことに対して理由をつけることに関しては、天才的な脳の働きをするという。本当にその通りだ。

 

感心してる場合ではない。まるまると太った顔を見て、いい加減に危機感を覚える。産後2ヶ月経った今でも、出産のご褒美と称して爆食いしているから、当たり前だろう。どうせおっぱいになって出るし、と言い聞かせて、何を食べても太らないと思っていた矢先に、現実を突きつけられている。

 

腰痛が治ったら、食べる量を減らそう。そう心に誓い、しばらく英気を蓄えるために食べることにする。ほら、バレンタインにもらったチョコもまだ余ってるしね。