コーヒー1杯分の幸せを作ろう

3児の育休ママが、コーヒー1杯分の時間やお金を作るために役に立ったものたちを、挫折や試行錯誤の経験を交えながら紹介します。

ドガと、あの世行きの列車

人生とは、あの世行きの列車のようなものである。作品の完成という終着駅に向けて、全速前進で走り続ける特急列車に乗っているのが、芸術家たちだ。

 

踊り子や競馬の絵で知られる、ドガというフランスの画家がいる。13歳で母親を亡くすことを除けば、他の画家と違って、劇的な人生を送ったわけではない。結婚もせず、子供も持たず、恋愛で浮名を残すこともなく、ひっそりと長寿を全うしている。裕福な家に生まれ、大学で法律を学ぶが、絵描きに転向する。彼の人生は後半に向けて影を落としていく。ニューオリンズで事業に失敗した弟のために自らの財産を投げ売って支援したため貧しくなり、以降も同じような暮らしぶりだ。ただ、貧しいと言っても生まれが生まれなので、生活に窮するというほどではない。共感を集めやすい、心臓を鷲掴みにされるような悲劇が彼の人生で見られないことも、有名になりにくい一面なのかもしれない。

 

印象派の中で珍しく、ドカは風景画を描かない。だが、目に飛び込んできた景色を頭の中に留め、アトリエに戻ってから描くという点のみは、他の画家と共通している。祖父ゆかりの地であるイタリアへ旅行し、数々の美しい景色を眺めるのだが、「正直、風景とかあんまり興味ないんだよな。早く家に帰って絵を描きたい。」というような日記を残している。

 

これは、文章を書いたり、絵を描いたり、曲を作ったりする人たちに通じるものがあるのではないか。旅行に行って風景をただぼんやりと見ていると、ソワソワしてくる。早く部屋に戻って、今の気持ちを表現してしまいたいと胸がうずく。風景を楽しんでいるところではなくなるのだ。

 

感性というのはホイップクリームのようで、泡立てたその瞬間が一番おいしい。直後はただ劣化していき、次の日には泡のように消えて無くなってしまう。アーティストというのは、損な性分なのかもしれない。ただそこでぼーっと眺めて、綺麗だな、と噛み締める余裕などない。風景を見て、そのままその気持ちを持ち帰って表現することで、「私はこの風景を楽しんだのだ」と思うことができる。楽しむことに時差がある。その生き急ぐ様子は、作品の完成という終着駅に向けて走り続ける、特急列車のようだ。

 

アーティストに限らず、多かれ少なかれ、人間もそのような生き方をしているのかもしれない。この世に生を受けた瞬間、あの世行きの電車に乗り込む。そこでは「二十歳駅を、時刻通り通過しました」とアナウンスが流れるが、いつ電車が終着駅に着くのかは誰も分からない。同じ電車に乗車するメンバーは、途中で入れ替わり立ち代わりしていく。下車10分前になると、多くは「そろそろ荷物をまとめて下さい」と突如車掌から肩を叩かれる。我々のような凡人は、悠然と構えているしかない。お弁当を食べつつ、外の景色もでもぼんやり眺めながら。

 

ただ、中には電車を飛び降りる者もいるかもしれない。その時は、優しく守ってあげたい。そのような乗客が多数を占める電車は、さぞかし居心地がいいだろう。落ちた先が人間から地獄と呼ばれるような所処だとしても、そんなに悪いものじゃないかもしれない。次に来た電車へ、這い上がるように乗車できるかもしれない。