コーヒー1杯分の幸せを作ろう

3児の育休ママが、コーヒー1杯分の時間やお金を作るために役に立ったものたちを、挫折や試行錯誤の経験を交えながら紹介します。

化石の老人

4歳長男が恐竜の化石を掘りたいと言うので、岐阜県瑞浪に行ってきた。そこでは化石発掘を体験できる、名物の河原があるのだ。

 

体験と言っても特にお金もかからず、何か教えてくれるわけでもなく、「この辺はよく貝の化石が取れると言われるので、さあどうぞご自由に掘ってください」と河原が開放されているだけの、なんともおおらかな場所である。まあ空いてるだろうな、という失礼な予想とは裏腹に、所狭しとハンマーと刷毛を持った子供たちが、目を輝かせて我こそ先に化石を見つけようと、無心で石を砕き続けていた。

 

多くの子供が石を砕き続けているということは、大半はまだ掘り当てていないということだ。現に、とったどー!という声はひとつも上がらない。雄大な山を背景に、陽の光を浴びた子供も大人も夢中になって石を削り続ける姿をぼんやりと見続け、「平和だなぁ……」と、柄にもない感想を抱いてしまう。河原の奥には山が広がり、昔ながらの日本家屋が点々と立ち並んでいる。町に、計画性もなにもない。空から降ってきたかのように、無秩序に家がぽつぽつと立つ様子は田舎特有の、土地を持て余しているからこそ出来る贅沢な使い方であった。

 

この光景は、子供達が大人になった時も広がっているのだろうか。科学の技術が進歩して 、VR などで化石発掘体験など簡単にできてしまう。そこには掘り続けたけれど何も出会わ徒労でに終わる、などということはなく、掘れば必ず出てくるスポットが決まっており、無限に掘り続けることができるだろう。

 

だから、この河原も保ってせいぜい50年くらいだろうか、などこれまた失礼なことを考えていると、不意に地元の方らしい軽装の、日に焼けた老人に話しかけられた。挨拶を交わすや否や、「ここと、あそこを掘ってみなさい。化石があるから。」と助言をして、足早に去っていった。今まで他の場所を掘っても何一つ出会うことができず、諦めかけていた矢先の出来事であった。

 

教えてもらった場所を掘ると、確かに貝の化石に出会うことができた。礼を言おうと辺りを見渡すと、老人はすでに遠くの河原で、別の家族に何やら教えているような様子であった。

 

老人に「どうして分かったんですか?」と聞いても無駄である。おそらく、直感や長年の経験だろう。聞いたところで、一朝一夕で真似することのできあるものではない。長い長い年月をかけて、化石が埋まる場所を掘り当てる、異常なほどの嗅覚研ぎ澄ましてきたのだろう。

 

科学技術の進歩という濁流に飲まれ、おじいさんも、無心になって化石を掘り続ける子どもたちも、跡形もなく無くなってしまう。まあ、別に、残り続けることに価値などない。その時、無心になって楽しんでいれば、例え50年後に消えていても構わない。

 

子どものように目を輝かせて化石のある場所を教えて回るじいさんを見つめてそんなことを感じた、皐月晴れの一日であった。